アテナは、パルテノンに戻って昼飯でも食い、いつもの午後からの日課である武術の鍛練でもしようかと思い、元来た道を戻り始めた。何、アルテミスの言うとおり、ヤツはどうせ探しに行かなくても自ら現れる。ならパルテノンで悠々と寛ぎながら相手してやっても良いだろう。
この時点で、アテナの燃え上がる怒りは大分沈静していた。まだ燻ってはいるが火消し隊を呼ぶまでもない、ご近所の皆さんのバケツリレーで十二分に消火できる、そこまで収まっていたのだ。
しかしその時。
踵を返して振り向きざまに見た視界の隅に動いた黒軍帽の金髪。
「…………ッ!」
いた! アレスが!
「待て!」
アテナは一声叫ぶや否や、もう人混みに紛れて見えなくなったシルエットを物凄い勢いで追い掛ける。残念ながら弱っていた火は再び勢いを取り戻したようだ。
「こらアレス! 待たんか! 止まれ!」
アテナイの住宅街の曲がりくねる狭い坂道を昇り下り路地裏に入り、人間と人間の間をかき分けかき分けて一瞬だけ目に映った黒服の金髪を追い掛けて。
「私を無視するな! ほら、お前の嫌いなアテナがここにいるぞ!」
顔に当たる砂と熱気に息を荒らして。
「いた!」
家々の隙間を縫って駆け回り大通りに飛び出して、遂に再びその金髪を視界に捉える!
「アレス! アレ……れ、あれ!?」
やっと追いつき彼の者の前に踊り出た……ら、
「べつじん……!?」
あの美男子とは似ても似つかないだんご鼻にニキビ面の青年が、アテナの声も姿も露知らず、異国の帽子をかぶって悠々と彼女の前を通りすぎて行った。
「……はは、そりゃ人間なら私の声も聞こえてはいないし姿も見えていないわな」
「おや、アテナじゃないか」
「わあ!」
思わぬタイミングで、しかも頭上から話し掛けられ飛び上がりかける。「そんなにビックリしなくてもいいんじゃないの? さっきから見えてたけど、大きな声で叫んで、どうしたんだい?」
「……ヘルメスか」
靴の翼をバサリバサリとはためかせてアテナの前に降り立つのは、先程のアルテミスの愚痴の中に名が上がった少年ヘルメス。伝令使の仕事の途中らしく、ぱんぱんに膨らんだショルダーバッグを肩から提げている。
「アレス兄さんを捜してるのなら風神ゼピュロスに聞けばいいよ。ついさっきばったり会って、ちょうどそんなような話をしたところ……」
「よしきた!」
アテナは再び走り出した。「おや、ゼピュロスの居場所を聞かなくていいのかな」と呟くヘルメスを残して。
***
しばらく無我夢中で走っていたアテナは気がついた、そうだ次はゼピュロスを探さないと!
「あらアテナ、何をそんなに急いているの?」
次に彼女の頭上から声を掛けたのは虹の神イリス。
「イリス、ゼピュロスを知らないか!? アレスの居場所を聞きたいんだ!」
「ああ、ゼピュロス。彼ならさっきここより西にいたわ。私もね、ちょうどヘラ様のおつかいで……」
「わかった!」
アテナは三度走り出した。「……せっかちねえ」と嘯くイリスを残して。
***
「あー、アテナがいましゅ、どうしましたかぁ?」
次に上から声を掛けたのは、背中の小さな羽をぴよぴよはためかせる愛の神のエロスだった。
「おやエロス、ここらでゼピュロスを見なかったか?」
「ボクはヘルメスを捜してましゅ」
「ヘルメスならあっちにいたよ、さあゼピュロスの居場所を教えてくれ」
「ゼピュロスはもうちょっと西にいたでしゅ、ボクはヘルメスと遊んできましゅ」
今度はアテナが走り出すより先にエロスがぱたぱた飛んでいった。「あいつ仕事中だったぞー!」というアテナの呼びかけを残して。
***
西の方へと、迷路のようなアテナイを走る。さしもの女神も疲れてきた。もう街を走り抜け、郊外と呼んでも差し支えのない、遠くに黒い山々のシルエットが見えるだけの原っぱに到着した。アテナは足を止め息をつき、そして空に向かって叫んだ。
「ゼピュロスー! いないかー!」
すると間もなく低い声が返された。
「何だ騒々しい、ひとの昼寝を邪魔する奴は神罰がくだ…………アテナじゃん……」
ルーズな服を着た気だるげな青年が、やはり彼女の頭の上で、風の上に寝転がっていた。ゼピュロスだ。アテナはぴょんぴょんジャンプして喜んだ。「やったー! 出たー! 探したぞ! ヘルメスに聞いて、アレスの居場所を聞くためにイリスに聞いて、エロスに聞かれて私は来た!」
「何を言っているのかさっぱりわからん、落ち着け知恵の女神」
アテナは2、3度大きく呼吸をし、そして兜を一度脱いで髪を整えて、またかぶり、また深呼吸をして、渾身の一言。「ヘルメスとイリスとエロスが、ゼピュロスがアレスのこと知ってるって言ってたんだ!」
「いやだからわからんって……」ゼピュロスは面倒くさそうに起き上がった。「てか、アレスのこと……? ヘルメスから聞いたのか? さっき確かに喋ったけど……でも俺、居場所までは知らんわ」
「何ィ!? 話が違う!」
「俺もひとから聞いたんだ」
「誰だ!?」
「『お天道さん』さ。何でもお見通しの、そんでまた噂大好きの、偉大な太陽神ヘリオスの爺さんさ。」
女神は、あっ、と目を輝かせたが、途端にしおしおとしぼんできた。翼を持つヘルメスやイリス達、また風の概念たるゼピュロスと違い、彼女は自由自在に空を飛べない。太陽までどうやって訊きにいけばいい?
ゼピュロスはバツが悪そうにしばらく肩をすぼめてアテナを見つめていたが、『のっぴきならない事態が進行していること』を察し、口を開いた。
「……どうしてもってんなら、連れてってやろうか、ジジイんとこに。あの爺の言うことが本当なら、アレスの状況知っておいた方がいいかもしれないからな」
意味深な言い方にアテナはわずかに眉間に皺を寄せるも、風神はお構いなく、まず右腕を振ると突如暴風が吹いてアテナの身体を空に持ち上げた。アテナはまるでお姫様抱っこのように彼の腕の中に包まれると思いきや――大きく振りかぶった左腕で、球技のサーブよろしく、太陽の方向へ、一直線にふっ飛ばされた。

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます