アテナの1日のうち午前中は、都市アテナイの見回りに費やされる。
アテナイはギリシアで最も巨大な『先進都市』で、所有銀山からの富と外港に日夜届く属国からの貢ぎ物のお陰で、農作には向かない貧しい土壌が特徴のギリシア地域の中では驚異的に豊かな発展を遂げた国である。民主主義が発達し、18歳以上の男子市民なら選挙権も持ってるし裁判にも参加できる。海軍が特に強く、一帯の小国をまとめて同盟の盟主に鎮座し東の大国ペルシアを撃ち破るまでに至った。そして哲学を初めとする様々な学問・文芸が発展し、教育制度も芸術活動も充実。
そんな大都会。アテナはこの国の偉大な守護神だった。
さて女神はアテナイの中心・アクロポリスの丘を下っていく。丘といってもその道は小綺麗に整備された白い石畳の階段や坂で、きれいに整備されている。アテナイ市中から見上げると、まるでパルテノンと一体化して、巨大な城塞を思わせる威容だった。
アテナがとっとこ丘を下りるのとは反対に、人間達は朝早くから神殿参拝のためにアテナとすれ違って上っていく。彼らはアテナには全く気づいていないようだった。なぜなら彼女は『神』であり、神は普通は生物には感知できない超越した存在であるから当然のことなのだ。ただし神の中にも様々なタイプがいて、例えば彼女の父ゼウスは人間の輪に交じって遊ぶのが好きだから、擬人化した姿を堂々と晒してお忍びで地上を楽しんでいるが、アテナは全くの逆で――まあ、ゼウスが稀な方で、大抵の神々は皆こうしているのだが――人間には己の存在を極力悟られないようにしている。
「だって頻繁に人間に姿を見せてたら、神としての有り難みがなくなるじゃないか」
が、もっぱらの彼女の言い分である。それに女神アテナ様というとアテナイ、いや全ギリシアでトップの人気者。そんな自分がひょこひょこ顔出して歩いていたら、サインに握手に身が持たないし! 私はアイドルじゃないし、ファンサービスなんかガラじゃないし! このアテナ様が調子に乗ったスター気取りとか、ちょっとねえ! いやっチヤホヤされて悪い気はしないけど! むしろ、嬉しいけどっ!
ひとり妄想を激しく繰り広げつつも、甲冑の下の表情はあくまでも凛々しく美しく。そんな中でも女神の腹はキュルルと鳴り、そうだあの朝ごはんを食べ損なっていたのだと、我に返ってはその度に怒りの炎を胸の中で静かに燃やすのであった。
そう、アレスのことだ。
両者とも同じ戦争の神だったのがいけなかったのか。戦をする時には必ずどんな場合でも敵同士、攻撃に特化した陣で、流血をいとわず力ずくで攻め落とすアレスに対して防衛に重しを置き沢山の戦略を駆使して打破を狙うアテナ。タイプは真逆だが、その実力は拮抗状態。無論個別の戦闘力も伯仲していて、ふたりがちょっと小突き合うだけで辺りの大理石製建造物が軽く微塵になる程。
ふたりの衝突は戦場だけに収まらなかった。会議の場でも意見の合う事はまずない。食べ物の好みも合わない。漫画の好みでも笑いのツボでも見たいTVでも、兎に角真逆。その度に張り合う。
そしてアレスの行き着いた先は「どんな手を使ってでも嫌がらせしてやる!」
アテナの行き着いた先は「どんな手を使われてでも負けない!」
ふたりの確執は止まるところを知らない。
さて、アテナがあまり広くない下り坂をてくてくと歩いていると、前方に、こちらに向かって手をブンブン振る影が見えた。銀の髪を揺らした軽快な服の少女。アテナに向かって元気に走ってくる。
「アテナさまーーーぁぁぁ! ケーキ食べましたかーーーーぁぁぁ!」
「ちょ、ちょちょちょ、待て、どうどうどう!」
ダッシュの勢いがつきすぎて闘牛状態の少女の額をガシと捕らえて宥める。「……おはよう、アルテミス」
異母妹の少女神アルテミスはアテナから離れ、にっこりと笑った。
***
アテナとアルテミス、ふたり並んで丘を下りていく。
アルテミスはアテナから見て、夜空に光る月のように肌が白く髪もさらさらで。背が高く身体は華奢で、腕と脚の細さは瞠目せざるを得ない。可憐、という言葉を表したような美少女。それでいて、心を許した者だけには懐くのだが、そうでなければ気難しいところがあり、時には獰猛さもある恐るべき妹分。
アルテミスがアテナを慕う理由は多数あり、ファッションにこだわりのある彼女にとってソーイングが得意なアテナは大尊敬まっしぐらだったり、男勝り……というより、うじうじしていくじのない恋愛という情を一切感じさせないアテナは、男性性への潔癖があるアルテミスにとって大樹のごとき安定感があった。
さて、アルテミスがアテナにやたらと付きまとう理由は決まっている。それは、双子のアポロンと何かあった時。
「昨日、突然来たんですよ、いきなり我が物顔でうちン家に上がり込んできたと思ったら、小言祭り! もうっ! グチグチグチグチやかましくて堪らないわ! そして何しに来たかと思ったら、なんか、また女がらみでやらかしたみたいで、自分の家に帰れなくなったみたいで、もーほんと無理!」
アルテミスはモデルのように長い手足をぶんぶん振り、アテナに先行してずんずん歩いていく。
「ママが聞いたらショックで倒れちゃうから言えてないんですけどねー。大体ヘルメスもヘルメスなんですよ、アポロンと友達なら止めてよ! って。相手の子も可哀想だのなんのって。ほんと、私が先に気づいてたら『アルテミスが告ぐ、アポロンはやめとけ!』って助言できたじゃないですか、そこが悔しい! 守ってあげたかった!
……ああ、何があったかは言いませんよ、そのうちアテナ様の耳にもきっちり届くから。絶対。
やっぱり男は信用できませんわ。嫌がる女の子を追いかけて、とか、力づく、とか、ゾッとします。こういう凶暴性から女子を守らなければならないのが、我ら処女神だと思いませんか、アテナ様!
大体、なーんで私とアポロンが双子なのかほんとわかンないと思いません!? こんなに性格正反対なのに! 私はアテナ様と双子が良かったのに!
――まああんな男でも? すっごい頼られてたり? すっごい慕われてたり? そういう一面があるのも知ってるんですけどね? それは認めるけれどもぉ」
アポロンの困った性格は周知の通りだし、そんな彼をアルテミスは邪険に扱いながらも、なんだかんだで上手く折り合いをつけて一定の仲の良好さを保たせている事をアテナは見抜いていた。
そうだよなぁ、きょうだい同士ぶつかるだけが能じゃない、歩み寄る努力も必要だよなぁ。どこぞのひよこ頭の脳みそプリン男に煎じて飲ませてやりたいわ。
あの……あの……!
「アイツわぁぁぁぁ! あああああ腹立つわぁぁぁあ!!」
「えええええええ!?」無言だったアテナがいきり立ち始めたので驚き目をひん剥いて振り向くアルテミス。
「そんなにアポロンに怒ってくれるんですか!? 今の話で!?」
「違うお前のソレじゃなくて私の弟だ!」
「アテナ様の弟はすなわちアポロンじゃないですか! さすがお姉様!」
「だから違う!」

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