剣の舞 - 3/4

「……ファザコン女」

ガシャンっと、手に持つカップをがさつにソーサーにぶつけるアテナ。

「誰が」

「お前だよ。親父の名が3回も出た。さすが親父の一番のお気に入りだな」

「この私をゼウスの飼い犬と、そう言いたげだな?」

「さあな」

彼女が現れてからアレスの世界は一変した。ゼウスは彼女の誕生を昔から待っていたらしく、本来なら王と妃の間に産まれた自分の立ち位置だった特別な場所を、次第に彼女が独占していったのだ。大人たちに可愛がられ、友達に囲まれ、人間に慕われる『姉』。どんな時も凛々しく、勇敢で、堂々としている『姉』。戦場に彼女が颯爽と現れると、どんな不利な陣でもたちまち勝ち戦に変わる。スレンダーなその身体は、鎧からドレスまで何でも美しく着こなす。純潔を守り、色恋などには目もくれない。護るべきもの――街、仲間、そして自分自身の矜持のために、気高く戦う『王子様』。それがアテナ。

気に食わなかった。

それだけならただの焼き餅で済んだが、アレスは更に、アテナを通して『世界の真実』を知ってしまう。すなわち、父の前妻の娘の登場により気を狂わさんばかりに鬱屈し、次第に露わになっていった母の残虐な性格に父の放蕩癖と過去の罪。何故兄が地上にいたのか、過去の戦争とは、『敵』とは誰だったのか……。

母を憐れみ、父を蔑むようになった。あんなに美談に思えた父たちの戦争の勝利譚も途端に薄っぺらくなった。剣の重みを感じれなくなった。世界は美しくなんかない。理想は崩れ、血と因縁だけが純粋だったアレスの心に重くへばりつく。虚栄にまみれた神々の寒々しい宴なんざ糞食らえだ。あいつらは皆、頭がおかしい。あいつらの笑顔は気味が悪い。もう一緒にいられない。真っ平御免だ。父も、母も、その周りで媚びへつらう者達も、そしてそう、あいつらの中心にいるあの疫病神、アテナ!

――そしてアレスは、次第にゼウス達から距離を取るようになる。端から見れば『荒れた』ということになるんだろう。実際、親元から離れて随分いろんな遊びを覚えてのめり込んだ。彼はどんな時でも粗暴で馬鹿そうな立ち振る舞いを忘れなかった。元々が『お坊ちゃん』の育ちだからおっとりしたところも昔からあったが、輪をかけて呆けた振る舞いをするようになった。まるで育ててくれた父母、そして今までの自分自身を否定するように。

アプロディテと通じたのはそれからだ。この一件で、あんなに親しかった兄との仲は決裂。アレスは遂にゼウスから『愚かな放蕩息子』の烙印を押された。

「――私は、父のために戦うのではない。愛する民と街のためだ」

アテナの声でアレスは我に返った。

(……『愛する』? また恥ずかしい単語をしゃあしゃあと。興醒めだ)

アレスはティースプーンをひらひら弄びながらアテナの部屋を観察してみると、観葉植物がちらほら置かれてあるだけで、後は白色で統一された家具が並ぶだけの、無味乾燥した殺風景な雰囲気だった。もっとも自分が今いるここは応接間で、この奥のベッドルームなどはもうちょっと生活感があるのだろうが。そう言えば、この食器類も白。尻の下の絨毯も白。テーブルも白で、そこにひかれているクロスだけが濃紺。彼女が今着ている服も白だから、こういう潔癖めいた色づかいが好きなのだろう。暖色系が好きなアプロディテとは正反対だ。

そう、そのアプロディテだ。

今朝、彼女と些細な事で言い合いになった。否、彼からすればとても大切な話だった。のに、無邪気にやんわり否定され、挙げ句うやむやに誤魔化されてしまったのだ。彼は憤り、そのまま飛び出してしまった。ショックだった。

彼女が何を考えているのか、はっきり言って全くわからない。いや、女というもの自体わからない。女とは世界で一番扱いづらい存在だ。たったひとりの存在が自分の心に薬にも毒にも作用し、絶対に思い通りに言うことを聞かないのだ。アプロディテはその最もたる例。こんなに付き合いが長いのに、未だに手が届きそうで届いていない。

そして今日、朝っぱらからこの女というものに腹は立ち苛々し、アレスは攻撃的な衝動を起こしたくなるほどムシャクシャしていた。目に止まらぬ俊足で海を駆けてギリシア本土についた頃、偶然巨大な建造物が目に入った。それがアテナイのパルテノン神殿だった。

この『要塞』に真正面から侵入する馬鹿はいない。裏手の小さな勝手口を見つけたアレスは、悪戯心で中に入ってみた。勿論、鍵はかかっていたが、壊して。非常ベルなど鳴ればいい、と破れかぶれに思っていたが、意外にもそのような警備体制はまったく取っていなかった。これも正に女神アテナの傲慢。『最強の自分が居れば事足りる』という、傲慢。アレスはより一層腹が立ってきた。おい、今処女宮に男が侵入してるのに、ノーガードなのかよ! バカにしてんのかよ! と。やがて、殿中をうろつくこと間も無く、隙だらけのアテナの寝室を発見した。

その剣で、音も立てずに鍵を斬り、大股で部屋に侵入する。奥に進むと、大きな天蓋つきベッド、そしてその中でもごもご動く者を見つけた。

処女神の寝室だ。

この部屋に侵入した招かれざる男性客は、正に自分独りだけなのだろう。肚から湧く汚れた愉悦に浸りながら、アレスはすやすや寝息を立てるアテナを一目見てやろうと、天蓋から垂れかかる遮光カーテンを音も立てずに捲った。もしここで万が一、俺が妙な気を起こしたら、彼女は飛び起きて甲高い悲鳴をあげるだろうか、それとも恐怖のあまり身を強張らせるのだろうか、と、笑いを噛み殺して妄想しながら。

彼は眠る彼女を見た。

驚愕した。

今まで見た女の寝姿の誰よりも、圧倒的に、可愛くなかった。

(色気ねェーーーーーー!)

まず、目が半開きだった。鼻の奥から小さくいびきが漏れていた。いつも鋭い眉を八の字に弛ませ口をだらしなく開け、手と足をぱっかり伸ばし、シーツはぐっちゃぐちゃに身体に絡みついている。

(俺が間違っていた……! そもそもコイツを女だと思うのが間違いなのだ!)

そうだアテナは俺が今まで付き合ってきた女とは全く異なる! さっき考えた通り女とは男には予測不可能の怪物なのだ。しかしアテナは違う、怪物どころか、怪獣だ!

さっきまでの苛々もどこ吹く風、こぼれかける笑いを圧し殺しながら見下げるアレスを知ってか知らずか、眠りの森のアテナは腹を掻いたり頭を掻いたり。

(これはこれで良い眺めかも知れん。『アテナ様』の醜態をこんなに間近で見られるのだから)

どれ、鼻でも摘まんでやろうかと彼が手を伸ばしかけたその時、アテナの口がふにゃふにゃ動いた。

「……そーんなに、食べらりないれしょーがぁ……」

(……?)

アレスはベッドから離れ、部屋の奥の炊事場に行ってみると、洗ったまま拭いてない食器が立て掛けてある。そして折り畳まれたケーキ屋の箱。更に冷蔵庫を開けると、見るも豪華なカップがひとつ。

……ははぁーん。

自分が食べてやろうかとも考えたが、それはあまりにも『お約束』すぎる。じゃあ、とアレスはそのヨーグルトをち出し、東向の大きな窓の横に備えられているテーブルに蓋を取ってそれを置いた。そしてカーテンを開ける。もうまもなく強烈な朝日が一気に差し込むだろう。瑞々しいヨーグルトは、発見される頃にはカピカピに乾いているだろう! フフフ、間抜けな女め! 今のうちにたっぷり味わっておくがいい! 夢の中でな!!

そしてアレスは、その窓からそのまま意気揚々と外に出て行った。しかし一時の気の紛らわしだけではイライラの抜本的改善にはならず、しかもその後外で運悪く幸せそうな人間のカップルの仲睦まじい様子だの結婚式だのが立て続けに目に入ってしまい、彼の元気は途端に萎え再び切なくなってきた。もう帰ろうとしたら、親愛なるポセイドン伯父貴の広い背中を発見してしまったではないか! アレスはここで海より深い漢の懐に甘え、そして腹が減ったのでアプロディテから聞いていた新しいケーキ屋がここから近いことを思い出してひとっ走りで買ってきて新鮮たまごプリンをつまんで己の機嫌を治そうと試みた。

以上が事の顛末である。

「――で、あのヨーグルトはカピカピだったか?」

「カピカピにはなってなかった。アリさんが食べてた。ていうかもうヨーグルトはいい」

薄化粧をした美しい顔で、しかも馬鹿正直な口調でアテナはハキハキ答えた。

「では言わせて貰うがな、お前の分不相応な言動、行動、どんなに父上が胸を痛めているか案じた事はあるか!?」

「あーあー知ってますよ! お前こそ俺が何回あの親父に勘当されたかご存知か? つーか関係ねーだろ俺と親の話は!」

「関係なくはない! 先程から何を聞いていた貴様は! アレスの仕事のひどさ、戦い方の汚ならしさは父上でなくとも誰もが眉をしかめる。私には、お前が人間を利用して破壊を楽しんでいるようにしか見えない」

「お前はゼウスの名前で俺を非難したいだけだろうが。自慢じゃないが、これでも兵達には好かれてる自信はあるぞ。俺のためなら命を投げ出す狂戦士達にな」

「それのどこが誇れることか。血気盛んな軍神様は恥の感情をお持ちではないらしい。成程それならば合点がいく、戦場で血を撒き散らし悦楽を貪る野蛮な男! まずお前の戦いには目的がない。ただの攻撃衝動の現れだ。その嗜好こそが恥そのものと言わずに何と言おうか。戦とは、敵を殺すためのものではない。自分を守るためのものであるべきだ。無益な血を流したらいけない」

「“百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり”。『孫子』。お前の好きな不戦屈敵とやらか。ただし孫子は道徳的観点からこれを説いたのではない。あくまでも戦略的なものだ。敵対国の乱立する世において無為な戦闘は極力起こすべきでない。軍の疲弊は他国に攻められる隙となり、兵力すなわち国内の労働の担い手たる健康男子を欠いては、国は内側から滅びてゆく、と説いている。お前の優等生めいた主張とはちょっと違うな」

淀みなく知識を吐く彼は異国の書が好きだった。中でも兵法書が特に。「俺はそこまで馬鹿じゃない」と、小さく呟いた。

「だが、どんなにお前が自分と俺とを差別化したがろうと戦場でやるこたぁ同じ、殺る殺す死ぬは同じだ。俺が咎人ならお前も咎人だ。同類だ」

「違う! 私の戦う理由は私の民と街を護るためだ」

「その『私の民』を戦争の免罪符に使ってんのは誰だ。“水至って清ければ則ち魚なく人至って察なければ則ち徒なし”。あんまり歯の浮くお綺麗事ばっか言ってると誰も寄りつかなくなるぞ」

ニヤアと笑いかけるアレスにアテナは頬を赤らめて激昂した。

「無礼者! 貴様と私は違う! 一緒にするな!」

「同じだ! 違う所があるとすれば、お前は戦に感情的になりすぎる、それだけだ! 戦だ! お前に戦場の人間の気持ちが分かるか!? 『死ぬ者』の気持ちが分かるか!? わかるもんか! 不死の神が、あいつらを理解できっこないんだよ!」

アテナの激昂に釣られてアレスの口調も熱を帯び始めている。彼は彼女の言う通り戦争が好きだ。そして自分を慕ってくる兵達が好きだ。確かに彼女の擁するアテナイ軍は規模が大きく統率が取れている理想的な軍隊だがしかし! 彼の拠点トラキアに集う有象無象の戦士群、アテナイの連中から異民扱いされているごろつきどもがアレスは愛しくてたまらなかった。神々の誰からも見下されているアレスを敢えて慕ってくる、死すべき神の似像、人間が!

「俺達は所詮根本からあいつらを理解してやれないんだよ!! 神でもヒトの生死は左右できない、俺はあいつらを見てるだけだ! じゃあ死んでいくあいつらに何ができるか!? 華々しく命を散らすチャンスを与えてやることだ! 俺が軍神たる理由、それは俺を慕う人間達のために他ならない! これも立派な愛だ。お前と同じ、民への愛だ!」

ここまで一息にまくし立て合うと、重い沈黙が訪れた。強い視線がぶつかりあって、空気の密度が一気に高まる。密室の世界が完全に時を止めてしまった。

もう外は、夜の帳が降りている。太陽を曳くヘリオスは姿を消し、代わりに月が浮かんでいた。

「……何が『清らかな処女神』だ。知ってんだぜ。お前があの男ンとこにしょっちゅう通ってる事。あんな醜男のどこがいいんだか」

「……は……?」

間抜けな声を出すアテナに向かって、アレスは畳み掛けるように喋る。彼女は、男が少しずつ床に放り出している剣に腕を伸ばしている事に気づいていない。

「もしかして、デキてんじゃねえの? あのブサイクな鍛冶屋と」

「……ヘパイストスのことか。今ちょうど防具をひとつ預けていて。前々から良くして貰っている。が、お前が勘繰っている様な仲ではない、断じて」

「どうだか」

剣の鞘に指が触れた。アレスはアテナから目線を外さないまま、更に手をまさぐる。

「ああ、あの悪趣味な生首の盾、か。道理で今日はうるさくないし、痛い視線もない。男の趣味も悪けりゃ持ち物の趣味も悪いんだな」

「そんな言い方をするな!」

「『足萎えのヘパイストス氏は私達の仲間です』、だろ? 薄ら寒い、気色悪い正義感だ」

遂に柄に指が触れた。後は奴の隙を伺うのみ……!

「お前とヘパイストスの間のいざこざはまだ覚えている。でももう昔の事だ、そしてあれの原因を作ったのは、ヘパイストスの妻を寝取ったお前だろう!」

「とうに愛が冷めてる妻をおざなりにしていたあいつにも非があるだろう。最初にアプロディテが俺を求めた。だから俺が応えた。そして彼女が俺を選んであいつを捨てた。なのにあいつはいつまでも根に持っている」

「ならアプロディテとふたりで堂々と愛し合えばいい! どうせまだ裏で密会し合っているのだろう? 後ろめたくないのなら、さっさとすればいいじゃないか、同居とか、結婚とか!」

「アテナ」この日、初めてアレスは目の前の女の名を呼んだ。「何故軍神がふたりいるか、知ってるか」

「理由はふたつだ。ひとつは、もし再び世界の覇権を賭けた戦争が起きた時、戦局を有利に進めるため。もうひとつは」

ため息をつき前髪をかきあげるアテナのその隙をつき、アレスは突然床に置いていた剣を鞘から瞬時に抜き彼女の喉元に切っ先を突きつける。「息子と娘どちらかが父に反逆した時、もう片一方がそいつを殺せるようにだ!」

丸腰に密室。疲労のたまっていたアテナは完全に気を抜いていた。

そのまま、ダンと音を鳴らして机に登るアレス。カップの茶が溢れる。

アテナはピクリとも動かない。否、動けない。剣はすんでの所でピタリととどまり、彼女の白い肌に噛みつく瞬間を今か今かと待ち構えている。飢えた蛇のように。

「用意周到な親父が手を打っていない訳がない。先王もその前も子どもに覇権を奪われた。そして自分にもその災厄が降りかかる可能性があると予言されている。だから親父は、産まれた長女と長男両方に戦の神の責務を負わせ、両者に拮抗する力を与えた。ひとりが王の座を狙ったらもうひとりがそいつを討てるようにだ。そして、なぜ娘の方を処女神としたか!」

アレスは一気に踏み込み、そのまま空いている手でアテナの髪を乱暴に掴んで床に押し倒し彼女の首の真横に刃を突き立てた。「うっ」というくぐもり声が細い首の喉からもれる。

「息子と娘が愛し合う仲になり手を組んで反逆しないようにだ」

彼は唇が触れ合いそうな距離まで生娘に顔を近づけ、冷ややかな瞳で囁いた。

「さあ、皆の『王子様』を『女』にしてやろうか」

空気が張り詰めた。

時間すら止まった気がした。

ひとの気配も無い。密室の小宇宙の真ん中で、互いの息がかかり合う距離で、ふたりぼっち。

しかしアテナは組み敷かれた体勢のまま鷲の如き鋭い目で睨み、薄い胸にたっぷり息を吸い込んで、はっきりと言い放つ。

「――できるものならやってみろ」

ああ、この女は甲高い悲鳴をあげもしない、恐怖のあまり身を強張らせもしない!

瞬間彼の背筋にゾクリと電流が走り、それと同時に彼女の赤く小振りな唇に荒々しくキスをしてやる。無理矢理舌をねじ込もうとすると彼女らしからぬ甲高いひ弱な声と吐息が漏れた。それが更に彼の嗜虐欲を高め、無我夢中で彼女の肢体に手を掛けようとしたその時、

「ッ!?」

突然。

凄まじい勢いと共にアレスの身体は重力から放たれた。それは僅かな瞬間だったが十分に自分に何が起こったのか理解させた。

(……なんっつー怪力だこの女……!)

身体が宙に旋回し、背中に激痛が走る。押し倒していた筈のアテナに、投げ飛ばされたのだ。

「はあああああああぁっ!」

彼女は直ぐさま絨毯に刺さる剣を抜き、今度は反対に倒れたアレスに刃を向ける。彼が顔上げたと同時に剣の切っ先を喉元に突きつけた。

「馬鹿者がぁ!!」

かつて戦場で、敵に向かってシチリア島を投げた乙女は、唇を手で乱暴にこすりながら服の乱れたアレスを見下して言った。

「お前は何もわかっていない!」

下唇を噛むアレス。急に動悸が速くなり冷や汗が流れ出した。

「いいかアレス、私をどうこうするより先に自身を磨け。憎い敵の貶めるのではなく己を高めて相手を越えようと努力せよ。勝負はそれからだ。いいな」

そう啖呵を切って、抜き身の細剣を彼の眼前に落とすアテナ。部屋の外ではせわしない足音が聞こえ始めている。今の物音で神殿内の従者や傭兵がここに近づいているのだろう。

身体を起こしてアテナを一瞥し、愛剣を取り返し鞘に納めながらアレスは呟いた。

「……わかってねぇのはお前だ」

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