性愛の女神。性的関係を持った男神は数知れず。いつも楽しそうで、いつも物足りなさそう。
アプロディテの愛人の若い軍神。
真正面に立つ鋭い目の男はいつもよりずっと真面目な顔つきで、彼女の華奢な肩を大きな手で掴んで、言った。
「お前に大切な話がある」
女の両頬はさくらんぼみたいに赤らんでいる。
「――俺と、一緒になって欲しい。結婚しよう」
「…………ねー、軍人さん」
だがしかし彼女の視線は冷ややかだった。
「……なんで湯船の中でそーいうこと言うのよ……」
そう、ここは風呂である。
***
「だってほら、虚栄も見栄も脱ぎ捨てた、垢も汚れも洗い落としたあるがままの姿同士、な!? アプロディテ!」
「『な!?』じゃないわよ。せめて、ね、逢った時とか、別れ際とか、他にタイミングはあるんじゃないかなあ? あとね、アレスくん……お風呂に入りながらアイスクリーム食べる癖も、やめてくんないかなあ? あたし折角バスタブにたっぷりお花浮かべて照明も凝ってんのに、可愛いふいんきブチ壊してんの、わっかんないかなあ?」
だだっ広い部屋一室まるまる使った広いバスルーム。シャンパンピンクの壁、アイボリーの床。あちらこちらに淡い光の間接照明。ナチュラルホワイトの湯船に溢れるほど張られた湯には赤と白のバラ。そこに浸かりながら、浴槽の外にポツンと置かれた銀のスプーンとウルトラマリンブルーのパッケージのカップをうっすら睨む女。
「結構旨いぞ。溶けんのめちゃくちゃ早いけど」
「グーで殴るよ」
このバスルームはついこないだ完成したばかりの特注品だ。間欠泉からお湯を無理矢理引っ張ってきているからわざわざ侍女に湯を沸かさせる必要もないし入りたい時に入れる、正に至高の贅沢部屋。内装だって凝っている。全て自分好みに作らせた。何せ、彼女の好きな配色もムードも知り尽くしている昔の夫に施工してもらったんだから、彼女がいちいち口出ししなくても、むしろ彼女の思い描く以上に彼女好みのものを作ってくれる。
……こんな事うっかり口滑らすと、目の前の甘味大好きな現愛人は怒り狂うから、秘密。女大工衆に作ってもらった、とだけさりげなく言ってある。
元旦那とは、連絡を取り合っていないと言えば嘘になる。まあ、完全に男女の関係は切れてるし、後ろめたい内緒事などは(尻軽の彼女にしては)全く無い。ただしアレスは一度激昂すれば話を聞くような男ではないし、言わなくていいことは言わなくていいわよね。うん。
「で、俺と結婚はしてくれないのか?」
「……重い話は苦手よ」
アレスがアプロディテの部屋に現れたのは深夜の日付の変わった時頃だった。さっきまで床を共にし、それが終わったので自慢の湯殿に招待したところだった。
睫毛の長い、そしてその奥の瞳の色が、氷柱のように、四月に突如吹く冷たい風のように冷たくて鋭い男だった。彼女はこの彼の眼差しが好きだった。性格はとぼけているのだが瞳だけはいつも冷たい。今もそう。彼に見つめられると身体の中心から甘く痺れて溶けちゃいそう。
この瞳が好きだった。そして、この瞳が好きなだけだった。これ以下でも以上でもない。
「なあ」
「……そういう気分じゃない、とだけ言っておくわ」
「じゃあ、いつ『そういう気分』になる」
「お風呂でリラックスしてる間はノーね。これだけは確実」
「また逃げるのか。これで何度めだ。一体俺は、何度お前にプロポーズすればいい」
「何度でも」
「いい加減にしろ」
アプロディテは鼻で笑い、アレスの手から逃げて、音も立てずにしなやかに、広い湯船の端に移動した。
「鬼さん、こちら」
アレスは硬い表情を変えず、潤んだ瞳のアプロディテとは反対に、じゃぶじゃぶ水をかきわけて、彼女を捕まえようとする。
「ふふ」
アプロディテは一糸纏わぬ姿で魚のように素早く逃げる。金の長い髪をタオルで上げていて、白いうなじと後れ毛が否応にでもアレスの眼に入り、それがひどく扇情的に映った。胸まである湯の中で白い乳と臀の肉が揺れている。長い脚と腕が優雅に舞う様は、海月だ。正体なく水面に舞う、海月。
「美しいアプロディテ」
「はやく捕まえてごらん」
「愛している」
「ここまでおいで」
「俺を惑わすな」
「ああ、楽しい」
「俺ではまだ駄目か」
あまりにもザバザバ動くから、水面が揺れて花びらがどんどん流れ落ちてしまっていた。アプロディテがそれに一瞬気を取られた隙に、アレスは間合いを詰めて腕を伸ばして彼女を力任せに無理矢理抱き寄せた。
「ンッ! 痛ァッ! ちょっと、やめて息苦しいわ!」
「俺にはまだ資格がないのか」
「……資格?」
苦しい体勢から身をよじらせて、結果、アレスの強い抱擁を真正面から受け止める状態になってしまった。彼は濡れた短髪の頭を彼女の首元にうずめて、更に力任せに彼女をぎゅうぎゅう抱き締める。
「お前は『結婚する気分じゃない』と言った」
「ヤだ、まだその話? ああ、息が」
「結婚という契約関係がその場限りの感情ひとつで是非を左右するようなものじゃない事くらい分かる。無理矢理その場しのぎの理由をつけてお前が俺との結婚から逃げている事も。何が駄目だ。俺には何が足りない?」
「足りないとか、そんな理屈じゃなくて……。ねえアレス、もうやめましょ、のぼせちゃう」
「じゃあ具体的に言う。何故ヘパイストスとは結婚できて俺とはできない?」
具体的すぎた。
「……動揺してるだろう。一瞬心拍数が上がった」
「……妬いてんの? てか、密着すんのやめてよ、苦しい」
「やめない。大した女だ、もう正常値に戻ったな」
「結局別れたじゃない、あたしが貴方を選んだから。それにあの結婚は、あの場でお互い仕方がなく、っていうもんだったし」
「じゃあ他の男ととは?」
「あたしは、バツはイチしかついてないわよ。……どうしたの? 今日はしつこいわね」
アレスは顔を上げ、抱き締める腕を少しゆるめて彼女が逃げ出さない事を確認してから、突然彼女の頭のタオルを解いた。
湿った長い金髪が、一気に落ちた。額に頬に首筋に襟元、胸、一点のくすみもないきめ細かい肌にへばりつき、その毛先は湯面に広がってゆく。髪の表面はトリートメント剤でぬめぬめしていて、独特の芳香が風呂のバラの香りと混ざって鼻腔を強く刺激する。アレスはその髪を、まるで壊れやすい人形を触るかのようにそうっと指で弄びながら、しかし優しい手つきと裏腹にサディスティックな眼で言った。
「この髪、切ってよ」
「……は?」
「だから、俺が、俺のために髪を切って欲しいって言ったら、切る?」
「切らないわよ。え、何なの?」
「俺が、短い方が好きだって言ったら?」
「嫌。切りたくないわ。きっと似合わないだろうし。モテなくなっちゃう」
「切れ。……他の男の目など関係ない、『アレスだけを想うアプロディテ』が見たい」
アプロディテはもう答えない。代わりに侮蔑の視線を投げ掛け、珊瑚色の口許は半笑い。
「何が可笑しい」
「あたしに命令しないで」と漏らした小さな呟きが、広い風呂場に響いた。「髪は女の命なのよ」
「軍人の魂は剣だが俺は今見ての通り丸腰だ。お前のためになら俺は剣を手放せる。じゃあお前は俺のために何を失う?」
「馬鹿じゃないの? 貴方の剣と私の髪は等価じゃないわ。それとも足し算引き算で恋愛が出来ると思ってるの? ……ああ、わかったわ。何が言いたいのか」
アプロディテは腕を伸ばし、自分より背の高いアレスのこめかみに指をあて、そのまま掌で彼の顔を包み込んだ。
「あたしが自分のものだって周りにアピールできる物的証拠が欲しいのね。なんて即物的な男なのかしら――欲深くて自己中心的で、その『軍人の魂』で獲物を刺し殺すしか能のない愚か者。まあそこが愛しいんだけど」
ふと、水の音しかしなかった浴室に、小鳥のさえずりが外から聞こえてきた。もうすぐ朝だ。
「……帰る」
「そこのゴミ、自分で持っていってよね。あーあ、毛先のトリートメントが流れちゃったわ、やり直しよ。このあとコンディショナーとオイルも塗らなきゃいけないのに」
「ひとりでやってろ」
湯船から上がり馬鹿正直にアイスの空カップとスプーンを拾って浴室から出ようとするアレスに向かって、アプロディテは最後に一声かけた。
「次はいつ来てくれるの?」
恐ろしい女だ、と小さく呟く彼の声が、やはり浴室に反響されていつまでも残った。