「さて、私が今から何をおっ始めるか、さすがに察しているだろうな鶏頭。そのボサボサ髪を隠す帽子、室内では取れ。マナーだろう」
ゆっくりと喧嘩の幕が上がる。先手を切ったのはアテナだ。
「随分な上から目線だな鎧頭」
「今私は兜をかぶってないだろうがヒヨコ頭」
「いつもあンなクソ重い金属のカタマリかぶってるクセに鉄頭」
「鉄ではないぞ! 新素材だ! 軽いんだぞ! 貴様の脳味噌よりかは重いけどな!」
「知らねえし興味もねえよクソアマが!」
「だからさっきからやるっつってんだろ! 三流不良のお約束科白発言するあたりお約束の馬鹿だなボケアレス!」
「雌ゴリラ!」
「鳥類!」
「マントヒヒ!」
「小動物!」
「イグアノドン!」
「粘菌!」
「それは小さくなりすぎだろう!」
「私は絶滅種か!」
そしてふたりは互いを指差して同時に叫んだ。
「兜で蒸れてハゲちまえ!」「軍帽で蒸れてハゲちまえ!」
たっぷり睨み合って、アテナが先にため息をついて眼をそらした。「……しょーもな」
そして彼女はいきなり立ち上がり部屋の窓を閉め、扉も開け、周りに誰もいないことを確認してまた閉める。
アテナに言われた通り帽子を頭から取るアレス。勿論注意に従ったのでも抜け毛を気にしたのでもない。ただ鬱陶しくなったからに過ぎない。頭をガリガリ掻いて、自慢の刀剣と共に脇に置いた。
香草の茶に思いきって口をつけると、案の定鼻孔に独特の香りが。そしてやはり苦い。思いっきり蜂蜜を溶かしこんで苦味を消してやりたいが、意地悪にも卓上に甘味の元はない。
「不味い」
「なら飲むな」
ピシャリと諌める声と共に、再び着席するアテナ。絶対嫌がらせだ、甘党の自分への嫌がらせに違いない! そんな恨み節もそ知らぬ顔、彼女は本題を切り出し始めた。
「時間が勿体無いから手短に話す。いい加減に私に突っ掛かってくるのはやめろ。貴様は嘲笑の的だ。余りにも無様。聞こえているだろう、軍神アレスを馬鹿にする下々の人間の声が。貴様は一族の中だけではなく、神を慕い敬うはずの人間にさえ『思慮分別が足りない』とか『図体だけ立派な阿呆』とか言われたい放題ではないか。目をそらすな耳を傾けろ、蔑まれる神よ。貴様の恥は我ら一族の恥だ。貴様のために大神ゼウスをはじめ幾多の神々が嘲笑の矢に胸を痛めているか! 貴様に足りないのは慎重で誠実な態度だ。感情に駈られるな。オリンポス神族の二大軍神のひとりとして、そしてゼウスの嫡男として、それ相応の行動をすべきである。おわかりかな?」
「それはまるで“君子に九思あり”だな。『論語』。高潔な心がけで何より。しかし俺は『君子』ではない、『将軍』だ。お前もな」
思わぬアレスの横槍を受け、彼女はあからさまに顔をしかめた。
「揚げ足を取るな。君子か将軍かの違いは重要ではない。民の上に立つ指導者としてわきまえなければならぬ最低限の心得だ」
「“君子は必ず其の独りを慎む”。こんな言葉もあったな。『大学』。高尚な君子様にお似合いの言葉だ」
「話をそらすな。フン、貴様に支那の故事の知識がある事はわかった。天晴れ見直したよ、これで満足か?」
鼻で笑いながら答えるアテナをアレスは更に小馬鹿にした態度でニヤッと笑った。「『演説』を続けろ」
「……そもそも貴様は言動も行動もいちいち幼稚なのだ。いつまで私はお前を諌めねばならない? 私の事はずっと嫌いで構わない、ただ、こんな一族と我らが父ゼウスの顔に泥を塗る行為を続けることはやめてほしい。
私に幼稚な喧嘩を売る事だけではない、貴様の荒れた態度を改善しろ、と言っているのだ。これは命令ではない要求である」
眼前の彼女はここまで一気に早口で捲し立てると、少しぬるくなったカップのハーブティーを一気に飲み干してポットから新たに注ぎ、また飲み干す。興奮を抑えているようで、喉が渇いて仕方がないらしい。
――もっともらしい語句で、もっともらしい正論を、もっともらしい聖人然とした態度でのたまいやがる。『前妻の子ども』のくせに。この女がでかい顔で振る舞うせいで元々力が弱くて『王の妻』という身分が拠り所の俺の母がどれだけ肩身の狭い思いをしているか! それだけではない、あの女へ向けられる父の特別な溺愛ぶりは見ていて鼻についてたまらないのだ。
アテナは『皆の王子様』だった。
アレスはゼウスとヘラの間に産まれた第一子である。待望の嫡男だった。彼は両親からの過剰な愛と教育を受け、素直で繊細な男の子に育った。真面目で勉強熱心で、父に勧められて始めた武術が大好きで、かつての戦争で一族を率いて『敵』と戦い打ち勝った父や伯父を尊敬し、チャンバラごっこから剣術の稽古へ移り、馬術や槍術も極めた。そしてこの頃は、地上から帰ってきた兄ヘパイストスとの仲も悪くはなかった。剣や鎧が兄の槌で造られていく様子を見たくて、毎日彼の鍛冶場に通うほど。
少年期のアレスは幸福だった。彼の世界は明るくて輝かしかった。一点の曇りもなかった。
――ただしそれは、無知故の幸せ。
大人達の都合の悪い事情は何一つ目に触れないままアレスは真っ直ぐに成長していく。そして、突然現れた腹違いの姉により、彼の世界は崩れることとなる。

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