「ごめん! あの、本当にごめんなさい!」
「謝らなくていいよ。ていうか、何で君が僕に謝るの」
怒らせた。それも物凄く。
ディオニュソスは宝石をたっぷりあしらった黄金のティアラを鷲掴みにして外に飛び出してずんずんと歩いて行き、アリアドネはその後ろを小走りに追う。彼女は必死に弁解するが彼は振り返りもしないで、いつもとはまるで反対な冷たい声色を投げ掛ける。
「何でついてくるの。ああ、これを返してほしいんだ」
「ちがっ……! ねえ、謝るから!」
「だからさっきから誰に謝ってるんだい。君はあの男をまだ待っていてこれをずっと持っているんだろう? 僕は君を保護してるだけだし勝手にその男ンとこに行きゃあいいだろう!」
「そんなこと言うなら、じゃあ何でそれ持ってっちゃうのよ!?」
「やっぱり返して欲しいんじゃないか!」
「だから……!」
息を切らせながら、アリアドネは自分でも収まりのつかない感情を整理しようとする。糸を手繰って、出口を見つけようと。
(そう、私はまだ待ってるんだわ)
生真面目で不器用だったテセウスは、アリアドネに沢山の贈り物をしてその愛を伝えようとした。彼が最後にくれたのがあのティアラ。ぶっきらぼうに一言だけ、「国で式を挙げる時にもっと良いのをやるから」と呟いてプレゼントしてくれたティアラ。緑、赤、青……綺麗な色石が沢山はめられていて、そのひとつひとつに彼の想いが込められてる気がして、今の今まで大切に隠し持っていた、ティアラ。
(大好き)
想い出が奔流となって脳裏を掠かすめる。折角の糸を、千切ってしまいそうになる。
(大好きだった)
その記憶を、再び涙が洗い上げようとする。糸を持つ意志が揺らぐ。
(泣いてたまるか)
奥歯を食いしばって堪える。決着をつけなければ。
(置いていかれてたまるか)
視界が曇れば、また取り残されてしまう。
もう、嫌だ……!
「『誰に謝ってるか』ですって……?」
急に声色を変えたアリアドネに、ディオニュソスの後ろ姿がピクリと反応する。
「私が謝ってるのは……そう、自分自身よ! 私は私に謝るの。ずっと騙してた! 誤魔化してた!
そうよ私まだテセウスが迎えにきてくれてテセウスのお嫁さんになるって心のどこかで信じてるの! でも心の反対側ではそんなのありっこないってちゃんとわかってるの!
だってテセウスよ!? あのテセウスがこんなひどいことするなんて有り得ないじゃない!? でも、現実に私は捨てられて、彼は戻ってこなくて! そして私の隣にいてくれるのは、貴方なんだわ!
そうよ私貴方が好きなの! でも認められなかった! 私はテセウスに捨てられたのに私の方からテセウスを捨てるのが怖かった! だから自分に嘘ついてた! 私が謝るのは、貴方が好きって、ちゃんと知ってるのに、嘘ついてた、私自身よ!」
急にディオニュソスが立ち止まって振り向いた。彼の表情は暗くてはっきり見えないが、月下に照らされて眼だけが爛々と光っていた。恐ろしく鋭い。
いつの間にかそこは、アリアドネが身投げしようとしていた崖の上だった。
再びディオニュソスはアリアドネに背を向け、低く唸る海に向かって……
「それ」
ティアラを投げ捨てた。
「あああああ!」
「あんな物より!」
いきなりディオニュソスはアリアドネの手を取ってもと来た道を戻り、辺りに木のない開けた野原の真ん中まで来ると乱暴に彼女を突き飛ばし、尻餅をつかせた。
「あんな物より、僕だって!」
見下される恐怖。アリアドネは目を閉じて身を固くする。すると思わぬことに彼は彼女の後ろに回って膝をつき、ぴったりとくっついて叫んだ。「空を見ろ!」
吃驚したアリアドネが目を開けて顔を上げる。
彼女の瞳に一面に映るは、白銀に輝く億万もの星。目をこらせばこらすほど、瞬けば瞬くほど輝きは無限大に増えていき、その内視界はホワイトアウトしてしまうんじゃないだろうかと思わせるほど煌めく、星、星、星──
アリアドネの顔の真横からディオニュソスの細くて長い腕が伸び、空を指差す。
「あの星とあの星とあの星とあの星と、こう繋げるんだ! そしたら立派な冠になるだろう!?」
「え?」
「手には取れないけど、あのティアラに負けないくらいきらきらしてるだろう!? そして、この島以外の地上のどこにいても、空にあの星達が昇る度に思えるだろう!? アリアドネはディオニュソスの妻だって!」
ビクッと身を震わせるアリアドネ。
「あの冠を君にあげる。僕と結婚してほしい」
今まで我慢していた涙が、ひとすじ、ふたすじと流れ星のように頬をつたった。
「これであいつと肩を並べられただろう。僕は本気だ。
君は僕を受け入れてくれた。人間のくせに僕と同じ目線で接してくれた。僕はこんなに風変わりだから神族の間でも鼻つまみ者だった。皆腫れ物に触るみたいに僕を見てくる。昔から僕をまともに相手してくれた者なんていない。
でも君は違った!」
「私は」
「君の過去も、君がこの島に辿り着いた理由も全部わかってる。それでも出来る限り、僕と一緒にいて欲しい。僕は君と一緒にいたい。一緒がいい」
アリアドネは唐突に、子どもの頃彼女の父から聞いた伝承を思い出した。ゼウス神を筆頭とする神様の中でひとり、ゼウスの正妻ヘラ女神から怨みを買い、親という親を殺されて独りぼっちで地上をさまよう神様がいるんだよ、と。
(このひとが、もしかして……)
真後ろにいる寂しがり屋の男神は、今どんな顔をしているのだろうか。
「……私、泣き虫で、泣いたらすっごく不細工よ?」
「飾らないところがいい!」
「私、優柔不断で悲観的よ?」
「僕は強引で楽観的だからちょうどいい!」
「私、人間よ?」
「僕の父は神で母は人間だった! おかしくなくない!」
段々力の込められていくディオニュソスの言い様にアリアドネは可笑しくなって、いつの間にか笑っていた。泣き笑いだった。涙で瞳を濡らしながらも、ディオニュソスの手がアリアドネの手を求めて彷徨うのを見つけて、彼女の方から迎えに行ってやる。
彼は傷ついたアリアドネを必死に慰めてくれた。次はアリアドネが彼の孤独を埋める番だ。
「……もう私を置いていかないって約束してくれる?」
繋いだ手が強く握られる。お姫様の戴冠式は、月と満天の星だけが招かれた、静かな静かなものだった。
***
お話はおしまい。
これが、今は亡き我が妻とわたくしのなれそれ話にございます。
あの時アリアドネは確かにわたくしを愛してくれていましたが、同時にテセウスのことも忘れられずに悩んでおりました。わたくしは彼女の迷いなど、勿論はなから全て気づいていたのです。そしてもしかしたら、この不肖ディオニュソスを捨て、元の男の元に帰ってしまうかも、とも。
しかしわたくしも我の強い性分なものですから、兎に角──『若気の至り』と言えるくらいに──彼女を繋ぎ止めるのに必死でした。
神がたかが人間ひとりにこれ程までに入れ込むなど、まずありません。それくらいわたくしは彼女を気に入り、そして、愛していたのです。
妻はその後、人間として命を終えます。しかし最期の時まで、わたくし達はずっと、ずっと手を繋いでおりました。
空をご覧ください。
持ち主のいなくなった今でも、その冠は光り続け、彼女の存在した証を伝えています。

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます