外に出ると、高い気温に似合わぬ涼しい風が吹いていた。太陽は殆んど沈み薄紫色の黄昏がこの小島全体を支配する。
「破片で怪我したらどうするの? 気をつけなさい」
「……ごめんね」
「僕に謝らなくていいよ、グラスくらいどうってことないんだから」
そう言って色素の薄い長髪と丈の長い腰巻きを風になびかせながら、ごくさりげなくアリアドネの手を引くディオニュソス。
「……あ」
「繋ぐの嫌?」
「や、嫌じゃないけど、私、手のひらが汗ばんでるから、気分悪くないかなって」
「アリアドネは変な子だなぁ。
日が完全に落ちる前に君に見せたいものがあるんだ」
そして更にぎゅっとアリアドネの手を握って足を速める。
(……『変な子』は正に貴方の事じゃないかしら)
あの日泣き腫らした顔のアリアドネを見るなり「ぶさいく!」と言い放った彼は、出会ったその日からアリアドネの傍にピタリとくっついて離れなくなった。彼女が泣くと涙を拭いてあげ、腹が鳴ると魚や果物や山菜を採ってきて一人前の飯を作ってやり、沈黙が降りると彼女の知らない遠い国の愉快な物語を聞かせてやる。冗談ばかり口にして道化のようにおどけ、『呑むと気分が良くなる葡萄水』を呑ませてくる。
どうやら彼は、今にも自殺しようとしている暗い目のアリアドネを必死に元気づけ、保護しているようだった。
朗らかで人懐っこい彼の人柄に飲まれ、いつしかアリアドネも本来の明るさを取り戻していったのだ。
***
「ほら見て! この樹の房、粒がだいぶ大きくなったでしょ」
ディオニュソスはアリアドネが来るより前から、この無人の島で葡萄の栽培研究を独りで行っていたらしい。連れられて来たのは数ある葡萄畑のうちのひとつ。数ヶ月前に花が落ちて結実し、やっとここまで育った葡萄を触り、ディオニュソスは嬉しそうに笑う。「君が来てから、やっとここまで育ったんだ。もうすぐ食べれるよ」
それだけ長い間共にいるという事になる。
「……きれいね。丸くて、透明で」
「やっぱり君は分かってくれるんだね。葡萄って、満月がいっぱいくっついてるみたいでしょう。こんなきれいなものはないよ」
葡萄の蔓は全て綺麗に手入れされていて、実は勿論、葉も大きく腕を広げてて空を仰いでいる。ディオニュソスが幹を指で軽くつつくと、まるで歓んでいるように肢体を揺らす。勿論『人間業』ではない。彼は正真正銘の植物の神なのだ。しかしアリアドネにとって、彼が神か人間かなどどちらでもよかった。
「さて戻ろう!」
「え、もう?」
「見せたかったものは見せたからもういいの。帰ったらごはんにしよう!」
「あ、待って」
「ほら、手! もう大分暗いから繋いどかないと離ればなれになっちまう」
「……ディオニュソスって手を繋ぐの好きなのね」
「うん!」
神の威厳などまるでない子どものような所作と明けっぴろげな態度。どんなに頑張っても崇拝の対象にはなりそうにはない。
「……変な神様よねぇ」
そんなアリアドネの呟きに、「ごはん何食べようかなあ?」と大口あけてヘラヘラ笑うディオニュソス神の姿を見ると、最近は何だか……
(……おかしいわね)
理知的で口下手で真面目だった、テセウス。そんなテセウスに恋していた筈なのに。
「アリアドネ、君の手は暖かいなぁ」
彼女より頭ひとつ高いディオニュソスの向日葵みたいな穏やかな笑顔がアリアドネを見下ろすと、アリアドネも笑みが溢れる。最近は、彼とこうやって並んで手を繋いで歩いているだけで、何だか昔からずっと一緒にいるみたいに安心する。そして、そんな心の変わりように戸惑いもしていた。
(どういう事なのアリアドネ。貴方にはテセウスがいるじゃない)
忘れられる訳がない。
“後で必ず迎えに来るから”
あの婚約者から最後に投げかけられた言葉を、忘れられる訳がない。
「何考えてるの?」
「……何でもないわ」
“愛してるよ、アリアドネ”
「アリアドネが来てくれてから毎日楽しいなあ。僕はアリアドネが大好きなんだろうなあ」
(なんてふざけた言い回し。テセウスとは大違いだわ)
「うふふふふ、アリアドネは暖かいなぁ」
(おかしい、そんなの絶対におかしいわ)
アリアドネの心は、正に『迷宮入り』の様相を呈していた。
***
夕暮れもすっかり収まり丸い月が空を支配する時間、家──と言っても、ぼろぼろのテントのような物だが──に着いた時だった。中で物音がする。
身を強張らせて怖がるアリアドネを横目で見ながら、ディオニュソスが入口を大きく開ける。と、同時に中から飛び出して来た動物が。
「イタチだ。入りこんだな」
そのまま暗闇に駆けてゆく小さな動物を見送ると、ディオニュソスはアリアドネより先にさっさとテントの中に入っていった。
入り口から月光の差すテント内は見るも無惨。蓄えていた保存食も酒樽も食い荒らされている。
「あーあ、ひでぇやこりゃ」
アリアドネは気づくのが一歩遅かった。荷物や服の下に隠していた彼女のあの大事な物も、だらしなくそこに落ちていたのだ。
「何これ」
彼の手の中で包みを取られたそれは──
「だめっ!」
それは、テセウスから貰ったエンゲージティアラ。

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