
ディオニュソス
狂気を司る神。葡萄酒の神。アリアドネを娶った。

テセウス
アテナイからやってきた旅人。婚約者アリアドネと共に祖国へ帰るところだった。
「アリアドネを迎えに来た」
屈強な身体に如何にも実直そうな面構え。テセウスはこの無人島に戻ってきた。
黄昏時。沖に大きな船を繋ぎ、そこから小船を漕いで、一人でやってきた。すべては婚約者を自国に迎えるために。しかしそこで彼を待っていたのは、彼が恋い焦がれた姫ではなく、彼にとっては意外すぎる見知った人物だった。
「どういうことだ、クレタの占い師……。俺はお前の言葉を信じて彼女をこのナクソス島に置いてきたのだ。話が違うのではないか」
「何のことかな?」
テセウスを浜辺で迎えた『占い師』の男は、向日葵を思わせる笑顔で首を傾げた。
「この俺を愚弄するのか!
『テセウスの妃となる娘にはクレタ島固有の悪痘が潜んでいる、このままアテナイ国へ行くと彼女は間もなく発病、免疫を持たない民に感染して国は危機に瀕する、ただしナクソス島に一時軟禁させたら娘の病は自然に癒え、アテナイにも入国できるようになるだろう』
と! 確かに、あの時お前は俺の出航前に確かにそう言ったではないか! だから、だから……!」
日によく焼けたテセウスとは対照的に、白い肌と紅い頬を持つこの男は、今はごてごてした占い師の服と化粧を取り燦然とそこに立っている。微笑みを深くすればするほど目はすうっと細くなり、紫の瞳の中に不気味な闇が沈澱してゆく。
「……アリアドネに会わせてくれ」
「彼女は会わないだろうね」
「何故!」
「アリアドネはこの誉れ高きオリンポス十二神がひとり、ディオニュソスの伴侶となった。これは聖婚である。汝の元へは戻らない」
「…………!」
頭に血が昇り咄嗟に剣を抜き中段に構えるテセウス。
「お前が占い師だろうが神だろうが俺には関係ない! 彼女はどこだ! 彼女を返せ!」
するとディオニュソスは眉ひとつ動かさずに、掌からグググと木蔦の杖を産み出して、その先を地にトン、と軽く打ちつけた。その瞬間テセウスの直下で激しい震動が起き、彼は足元を砂に掬われバランスを崩して、遂に剣を突き立てて跪いてしまう。
「やめておけ、我は汝を殺すつもりはない。しかし神に抜き身を向けるとは、向こう見ずな男だ。気に入ったぞ」
ディオニュソスはやはり気味悪く微笑みながら王子を見下げる。勇猛果敢なテセウスはこの時初めて『どんなに足掻いても勝てない相手』を知り、恐怖と畏怖と、悔しさで動けなくなった。
人間は神に勝てないのだ。
他者に跪くという屈辱的な姿勢のまま、王子は喉から振り絞るように呟く。
「…………一緒になるって約束したのに……!」
「諦めろ、英雄テセウス。汝は誠実すぎた。手元の『糸』を手繰る事に夢中になりすぎるあまり、左右後方の罠に注意も向けなかった」
「神が人間の女を盗っていいのか!?」
「人聞きの悪い。アリアドネが我を選んだのだ」
テセウスは血走らせていた眼を遂に伏せて大きな顎を戦慄かせ、大声で泣いた。拳を地に叩きつけて叩きつけて、血が出るまで繰り返した。涙が枯れ喉も枯れ獣のような喚き声しか出なくなっても、構わずに、ないた。
ディオニュソスがそこから立ち去った後も、テセウスの咆哮は止まなかった。それは島全体に響いていたが、ついぞ姫は彼の前に姿を現さなかった。彼が後ろ髪をひかれながら、最後に小さく彼女の名前と別れの言葉を呟いて船に乗り込んだ時も、彼女は出てこなかった。
***
その後、テセウスはアテナイ国の王位を継ぎ、立派な治世を築き上げ名君として後世に名を残した。
王となり妃をめとっても冒険好きは変わらず、度々諸国へお忍びで遠征に出掛けたりもした。その度に彼は、あのミノタウロスの退治と、クレタの姫を思い出すのだった。
幾度となくナクソス島に立ち寄っては、無数の部下を使い、勿論率先して自らもアリアドネ姫を捜索したが、彼女は見つからなかった。まるで『神隠し』に遭ったように。
テセウスは晩年に王位を追われ暗殺される。生涯を終えた今、彼は冥府にいるであろうアリアドネと再会できたのであろうか。
「恋を実らせるためには、卑怯な手段も時には必要だよ」

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