アテナイには守護神アテナという女神がいます。彼女は毎日アテナイをパトロールしています。その日、アテナはいつもより早めにパルテノンに帰宅しました。市中見回りの際、あの暴れん坊のアレスの襲撃に遭って砂ぼこりと汗で身体が汚れてしまい、一度帰って水浴びや着替えをしようと思ったのです。
殿中の奥には静かな泉があります。パルテノンの奥には男は入れませんし、普段からひとの来ない秘密の場所。女神はこの野外の小さな泉がお気に入りでした。いわば彼女のプライベートプールです。
ところがここに先客がいました。
『今の時間ならあの嬢ちゃんも帰ってこねぇだろ』
『ああ、だめよポセイドン様……! こんな……! いけないわ……!』
『お前が言い出したんだろ、シチュエーションにこだわってみたいって。なあ、メドゥーサ』
『そこに誰かいるのかー?』
アテナは、見ました。
まるで時が止まったようだったそうです。
『…………』
『…………』
『…………お前ら何している』
呼び掛けられた彼女の伯父ポセイドンは、女の腹上から身を起こし、ゆっくりゆっくり、機械的に振り向きました。そこには正に全身から闘気を纏わせた処女将軍が無表情で仁王立ちになっているではありませんか。
彼は、喉元から声を絞り出すようにボソリと答えました。
『…………ナニしてます』
アテナの怒声はギリシア中に響きました。
「ぎゃっっはははははは! ははは!あーははははは! あーりーえーねーぇぇ! は、あっははははは! ひーっひっひあはあふあははははは! ひゃッッひゃひゃひゃあああ!」
「ちょ、エロス君ウケすぎ! 落ちる落ちる!」
「そしてアテナはポセイドンにこう言いました。『なんてバチあたりな神様だ』……と」
「あーもー無理! ぎゃははははははははっははははは!」
ヘルメスの膝の上で、エロスはのけぞりながらゲラゲラ笑って止まらない。
「……ガキのナリして下ネタ好きだよな」
「好きなんですよねえ……。やっぱ血ですかね、血」
『下ネタ』に笑い転げる外見年齢こそ10歳ほどにも満たない原初神に冷ややかな視線を投げ掛けかけるふたりの成人男性神。かたやバツイチ、かたや美形好青年。
「アレも好きなんじゃね? アルテミスとその侍女と親父殿の痴情のもつれ」
「喋らないであげて下さいこの子窒息しますから」
「どちらかというと悲劇だよな、カリスト嬢のアレは」
「坊やの脳内変換では極上のコメディでしょうよ」
この間やっと息を整えた真っ赤な頬のエロスは、そうそうメデューサメデューサ、と噛みしめつつ言った。「そう、その名前をド忘れしたから訊きたかったんでしゅよ」
笑いすぎてぐったり力の抜けているエロスを抱き止めながら、ヘルメスもまた『メデューサ』について物知り顔で蘊蓄を喋り始めた。
「その女も女だよな。メデューサってアレだろ? 『あたしの髪はそこらの女神様より美しい』とかヌカしてた女だろ? アプロディテにもヘラ様にも目ェつけられてたとかいう。で、この『事件』の後、化け物に姿を変えられて、挙げ句人間の、ペル……ペルなんとかに首はねられたんだっけ? 散々だな! でも彼女だけ罰を受けるのはおかしくね? オッサンも同罪だろ?」
「ポセイドンはポセイドンで奥方にチクられて、
『ウチそんな恥ずかしい旦那知らん! 帰ってこんといて!』
……って勘当されて海底の宮殿から閉め出されて、暫くはオリンポスに身を小さくして居候してました、というオチつき」
「ぎゃっははははははは! はーっはー、はー、はははははは! あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
再び自分の膝の上で大きい頭をふらふら揺らしてケタケタ笑いだしたエロスがさすがに鬱陶しくなったヘルメスは、よいこらしょっと坊やを床に降ろして足を組みつつ大人びた口調で言った。「で、その女の首が後にアテナの盾になったんだよな? すげえ形相らしいのな、一目合うと呪われて瞬きする間に石になる、と。俺ぁ遠目からしか見たこたぁねえんだけど、臆病者なもんだから間近で拝んだらきっと失神しちまうや!
でも、ま、言っちゃなんだけど、馬鹿な女だな、オッサンと野外でイイコトしてあの鎧女を怒らせて死んじまって、さ。『人間様』はもっとイノチを大切にせねばならんよなあ、俺達と違って時間は有限なんだから」
少年は、組んだ足首をぐりぐり回して、腕を挙げて大きく背伸びをして深呼吸した。倉庫や工場という建物内は例外なく空気が澱んでいるものだ。
「だいたい人間なんかが神の相手になっちまうことが可笑しいんだ。どうせすぐに老いて死ぬくせに、そんな短い一生を無限に生きる神の玩具にされてシューリョーとかさ。都合が悪くなったらすぐにポイ。なんなら息の根まで止められるんだぜ? 俺の親友のアポロン君なんか、何人殺してきたことか。人間は人間らしく人間社会で身の丈あった恋愛を送ってほしいね。そして寿命を迎えて死ぬ」
「手厳しいですね、君は」
「そう?」
あるいは、大人達の歪んだ人間関係と諸々の汚ならしい揉め事にもみくちゃにされて、変にスレてしまったのか。ヘパイストスは自分よりうんと若いこの弟分を幼少から知っているが、陽気に喋るわりに昔から醒めた眼をしていたな、とふと思い出した。ヘルメスだけではない、アレスも、アポロンも、アルテミスも子どもの頃から知っている。アテナに至っては、自分がこの手で『父の胎内』から取り上げた。
――皆そうだ。目に見える欠損は自分だけだが、どいつもこいつも歪んでいて、何かが足りなくて、それのせいでいつも軋んでやがる。ぶつかり合って音が鳴る。あの耳障りな音が。
カチャン。
足を動かしてないのに、硬い音が聞こえた気がした。
「でも、ヘパちゃん」
と、床に座りこんだエロスがまだ目尻に涙を浮かべながら訊いてきた。
「なんでこんなにこの話詳しいんでしゅか? あのアテナから直接聞いたんでしゅか?」
「ああ」
彼は、まさか、と首を横に振った。そしておもむろに、カチャンカチャンと立ち上がり、さっき金槌や鋸と一緒に棚にしまった大きな布包みを取ってきて、ふたりの客人の目の前でバサリとその布を剥がした。
「直接聞いたんですよ。ね、メドゥーサ」
そこには、円形の盾に女性の生首が埋め込まれていた。そして生首は眉と目をギョロリと動かし威勢よく口を開いた。「失礼しちゃうわ! 人の気も知らないで! 全部聞いてたんだから!」
「きゃあああああああ! 生きてる喋ってるううううううう!!!」
エロスとヘルメス、この日一番の大声が狭い室内にハウリングした。
「アテナの盾は僕の作品で、メドゥーサの首を盾に埋め込んだのも僕です。今日ずっとメンテナンスをしててですね……あれ、ああメドゥーサ、ふたりが動かなくなっちゃったじゃないですか。貴女目ヂカラ強すぎるし顔怖いんだからむやみやたらにひとを睨んじゃ駄目ですって」
「ちょー失礼! マジでちょー失礼だから! ヒトを化け物扱いしないでくれる!?」
「おおうるさい生首女」
「生首女ってアタシの事!? アタシしかいないよね!? 誰がアタシをこんな姿にしたのよ!」
盾に埋め込まれたメドゥーサは、まったく肺も声帯も無いくせにどうやって声を出しているのか不思議に思うその隙も与えないくらい間断なく喋り続ける。元々の顔立ちは彫りが深く瞳の大きな派手めの美人だったのであろうが、眉間に皺寄せて赤い唇と形の良い鼻の穴を裂けんばかりに広げて唾を飛ばしながら喋りまくる眼光鋭い生首というのは……。
「ヘパちゃん……怖い……もらしそう……」
……なかなかの精神的破壊力ではないだろうか。神もホトケも肝を潰して動けなくなるくらい。
生みの親たる発明王ヘパイストスはしゃあしゃあと、「生首になったお前の命だけは助けてやったんだから文句言わないで頂きたい。お前の身体は作り物の盾、僕も作り物の足。お揃いですね」と、特に動じる事なく彼女の生身の額をデコピンする。
「痛ッ! 痛ァッ! 咬むわよ! んで生首生首言うなっつーの! アタシはあのアテナを護る盾なんだから! 超偉いんだから! わかってんの!?
ああ~早くかーえーりーたーい~! パルテノンでリッチな生活しーたーい~! 第一心配なのよ、アテナってばあの子、アタシがいないと超何するかわかんないってか超挙動不審っていうか、こう、心配っていうか? まあ所詮アタシは『人間様』ですけどぉ! 『人間様』の分際ですけど~!
そりゃ昔は恨んだわよ、アタシをこんな風にしたのはアテナだし。でもぉ、海王さんの愛人やってる頃より豪遊させてくれるし、案外これはこれで楽しいっていうの? こんな身体で不都合もあるけど、良いことだってあるからそこまで悲観してないっていうの? アタシがプラス思考すぎんのかな?」
ヘパイストスは答えない。メドゥーサは薄い唇を蛞蝓みたいに蠢かせて、ろくにヘパイストスの方も見ずに続けた。
「アタシはね、どうせ生きれるんなら楽しく生きてやるわよ。例え足がガチャガチャ鳴るとしても、首だけだとしても。折角生きながらえた命なんだもん。アンタはどうなの?」
「……貴女みたいに図太い神経だったらどんなにいいでしょうね」
「暗っ! 暗あっ! そんなだから冴えないのよ! てーかアタシ弱り気味なんだから横にさせて。それに、いつまでもアタシがいたらこの子達ずっと動けないでしょ! あ、ボク達! アタシの名前、メ『デュ』ーサじゃなくてメ『ドゥ』ーサだから! 大事、発音超大事だから! 聞いてる?」
メドゥーサに睨まれて動けないエロスとヘルメスは……ノーリアクション。
ヘパイストスはメドゥーサを元のように布で包み、再び、カチャン、カチャンと足を鳴らし、横たえる。
「どうせ、生きるんなら、ね」
独り言。恐らくエロスにもヘルメスにも、メドゥーサにも聞こえていない。
「それは人間の発想だ。永遠に生き続けなければならない神は、」
どうすればいい。と呟いた言葉が、ちょうど『カチャン』の音に隠されて、もはや彼の耳にも届かなかった。
カチャン。
カチャン。

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