女王とグランパ - 2/2

「もっとゆっくりしてくれてもよろしいのに」

応接間で、ペルセポネが紅茶とクッキーを差し出すと、その客人は目を細めて笑った。深い皺を顔に寄せ、枯れた手で熱いティーカップを慈しむように撫でながら。

「ダージリンか? 香りが格調高い。色も良い。この美しさ、正に選ばれた神のための嗜好品と言える。儂みたいな老いぼれに飲ませるには勿体ない代物だな!
ありがとう、この茶を楽しんだら発つとしよう」

「先を急ぐんですの?」

「いやあ、ただ、わしがここにいれば迷惑になるだろうから」

「そんな事は」

ペルセポネが真顔で否定しようとすると、客人はにんまり笑って自分の前に座るペルセポネをテーブルごしに片手で呼んで、顔を近づけさせた。そして身を乗りだし、彼女の耳元で、小声で囁いた。

「わし、実は前科持ちのお尋ね者だから」

ペルセポネはブッと噴き出した。この老人のジョークは突拍子がない。言った当の本人はすまし顔でストレートティーを一口、「うむ、良い」

「またまたぁー」

「信じてないな」

「じゃあ何をしたんです?」

「昔、色々とね。まああれはわしが悪いことをしたというより、時代がわしを選ばなかったというべきか。とにかく残念なことにお縄についちまってな、でも牢屋は暗くてジメジメして窮屈で飯が不味くて、何より臭かったもんで逃げてきたんだな、うん」

「本当?」

「本当だとも! いや、苦労して脱獄して良かったあ! お陰でこんな芳しい茶を若い娘と楽しめた。やはり外界は最高だ」

ふふんと鷲鼻を鳴らして茶をすする目の前の老人。妙な客人だ、とペルセポネはしみじみと思い自分もカップに口をつける。

3日前。一人の男が宿を求めてここにやってきた。ちょうど彼女の母親は『ママさん温泉ツアー』で留守中なので、一人娘の彼女がこのエレウシス神殿の主として気丈に守っていた所だった。

男だ、と応対に出た巫女から聞き、断るつもりだった。しかしいざその客人を見ると、彼女はただならぬ気配に気圧されたのだ。

(あれは人間じゃない……高位の神族だわ)

しかし見覚えはない。幼い姿に見えてペルセポネはもう中々の年長者だが、そんな彼女すら全く知らない高位神などいるのだろうか? 彼女はまた、もしや変身の得意なあのゼウスがからかっているのかとも思ったが、それにしても雰囲気が全く違う。いや、少し面影は似ているが……。

そんな、よくわからない勘も手伝ってか、彼女はこの男の滞在を認めることにした。殿中で絶対に騒ぎを起こさないこと。もしも由々しき事態が起きれば即刻処罰を致す、との約束を取りつけて。女神の治めるエレウシス神殿に於いては極めて異例。あのうるさい母がいたならばこうはいかなかっただろう。

男は壮年の姿をしていた。大柄で浅黒い肌に、相応の皺が刻まれている。太い眉毛は黒で、後ろに撫で付けている白髪とのコントラストが印象的。そして、まるで悪戯っ子のように目をくるくるさせる。

滞在を許したペルセポネに男は深く感謝した。元々農耕や鍛冶にあかるいらしく、「慈悲のお礼に」と彼女のもつ麦穂の収穫用鎌を一本研いでくれたのだが、その切れ味たるや、何度収穫の季節を越しても刃こぼれひとつ起こしそうにない見事なものだった。

男は紳士的でもあった。お尋ね者とはよく言うもの、博覧強記の知識、立ち振舞い、食事のマナー、レディーの扱いまで完璧に洗練されていた。服装こそ旅途中の薄汚れたものだが、フォーマルな衣装を着せるとそれは立派なジェントルマンになるだろう。そして、呆れるほどよく喋る。折角の客をもてなすために(見張りの意味もあるのだが)こうやって話しかけると、反対にペルセポネが彼のお喋りに飲み込まれてしまうのだった。飄々としていて、どこか惹きつける味を持っている。

ペルセポネはこの男を大層気に入っていた。

「ねぇ、名前くらい教えて下さい。折角仲良くなれたのに」

「名乗る程の名があるならとっくに貴女を口説いているだろうに。可愛いお嬢さん」

この『冥妃ペルセポネ』に向かって軽々しく『お嬢さん』呼び! 生けとし生きる者全てに畏れられ神々からさえも一目置かれている、”滅ぼす者”の名を持つ彼女に向かって! ペルセポネはますます彼を好きになっていく。

「じゃあ、何をしてらっしゃるの? ご職業は?」

試すような彼女の言葉のその裏に気も留めず、男は今度は気取って指をパチンと鳴らした。

「アーティスト!」

「アーティスト!?」

予想だにしない答えに、ペルセポネは口をあんぐり開けるしかない。

「わしの仕事は実に幅広い。詩をうたい物を書き音楽を奏で絵を描く! そして、ダンス!」

「踊りまで!? なんて芸達者なのかしら」

「これらの芸は全て精神の牢獄の中で編み出した、謂わば自己との対話の産物だ。それしかやる事がなかったのだよ」

「先生はさぞやご高名であらせられるのでしょうね!」

「それが不出世だ。わしを取り締まる奴等はわしの崇高な作品を見ようともしない! きっと天地が引っくり返るのを恐れているんだ! 見たいか、エジプト仕込みのベリーダンス! 男は眼を開け女は眼を伏せる禁断の世界! まず悩ましげにな……」

いきなり立ち上がり腰をくねらせる老人に、ペルセポネはもう息も絶え絶えに笑って止まらない。何を尋ねても絶対に真面目に取り合ってくれないのだから困ってしまう。

「では、奥様は」

いらっしゃるのか、と、そこまで言い切る前に、かぶせるように男は答えた。

「家内、うん、いたよ。でももう別居中。しかもわしは子どもにも嫌われてるから、天涯孤独の独り身さ」

あ、聞いてはいけないことだった、と彼女は自分を悔いた。慌ててポットから紅茶を継ぎ足して誤魔化そうとしたが、老人はそれをやんわり拒む。顔にはまた深い笑みを湛えている。「いやあ、この時期は夕方が過ごしやすいな。あんまり涼しいと、小便が近うなってしまうわ」

「……」

ペルセポネは、彼が子どもに見放されているなんて、そして親を見放す子どもというものを信じられなかった。その妻と子どもはどんな薄情者なのかと、憤りを覚えさえした。

ペルセポネは生まれてからずっと母デメテルのみに育てられ、父ゼウスとは共に暮らした事がない。彼は一族の中でも特別な存在で、母以外に正式な奥さんがいるから私達と一緒には生活できないんだと昔から彼女はそう思いながら大きくなった。だからゼウスが『父親』と言われても実感は全く無いし、あの自分と全く似ていない最高神に『父親』として接した事もない。彼女にとって『父親』とはとても遠い存在だった。

家庭内における男親の喪失が娘に与えたもの、それは父性の渇望。だからペルセポネは、無意識のうちに『お父さんのような男の人』を求めてやまない。

「お嬢さん、あんた、親とか家族は健在?」

「え?」

まるでこころを見透かされたよう。

「どんなかたちであれ、親がこの世にいる者は幸せだ。わしはそう思う。そして、家族と仲良く一緒に暮らせる者は、もっと幸せだ。世界一幸せかもしれん。ただし、幸せはいつまでも続かないのがお約束。そして幸せは無くしたときに初めて気づく。だから、あんたはそれを無くす前に、年寄りの説教聞いて精一杯大事にしなさいね」

「……はい」

「ところで! わしのその薄情者の子ども、ちょっと有名なやつなんだけど、知りたい?」

「え? ええ、とっても」

「……やっぱ言うのやーめた」

ガハハハ、と豪快に笑って、男はカップの紅茶を飲み干した。「さあ出ようかな。『時は金なり』だ」

***

外に出ると少し日が赤くなっていた。大門を出たところまで見送ろうとすると、男は「ここで十分」と、神殿の玄関でペルセポネを押し留めた。彼女が、道中に、と少々の食糧を渡しつつ名残惜しそうに男の手を握ると、彼はあの目を細めたくしゃくしゃの笑顔で、やはり寂しそうに、そしていとおしそうに彼女を見詰めていた。

「また来て下さいね! 絶対!」

「いやあ、この年になって若い娘にちやほやされるなんて、役得だ」

またからかうような口調で老人は声を張り上げ、ちょっとつつけば涙が溢れそうな少女の瞳から眼をそらさずに、「ほら、泣かないの」という風に手を握り返す。

「あの、もし、帰る場所が無いのなら」

「うん?」

「わ、私を、貴方の娘と、いや、それはおかしいかな、あの、あの!」

「うん」

「私が貴方の娘の子どもになりますから!」

傾いていく斜陽が止まったように感じられるほど、長くて優しい沈黙が降りた。

「……そうか」

「わ、私を、孫……って言うのかな、そう思ってくれて構いませんから!」

「……じゃあわし、あんたのじいさんか」

「はい!」

老人は、そうか、そうか、と照れ臭そうに一瞬下を向いたが、顔を上げたらもういつもの飄々とした表情に戻っていた。

「暗くなってきたから早く中に戻って戸締まりしなさい。

ではまた会おう! それまで達者でな!」

男の背を見送るペルセポネの頬の赤みは暫く引きそうになかった。

まったく、妙な客人だった。

(それにしても……)

はた、と思う。

(そういえば、私の本当のお祖父様ってどんな方なのかしら。冥界の最深部に監禁されてるってだけは皆から聞いてるのに、それ以外の事は誰も教えてくれないのよね。今度冥界に戻ったら、ハデス様に訊いてみよう)

ペルセポネがあの男の正体を知るためには、冬を待たなければならない。

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