扉をノックすると「入れ」と、すぐに返事があった。機嫌が悪い……。女の直感。
「おはようございます、ハデス様」
部屋の中には、鴉色の長い髪を乱暴に結わえた男性が豪奢な椅子に深く座って茶を飲んでいた。端正な顔立ちにいつもより深く刻まれた眉間の皺。少女の直感は的中していた。
「どうした? 何か用か?」
「朝のご挨拶……。お疲れの様ですね」
「徹夜だ。ミノス達が休みを取ってるんでな」
「お仕事、手伝いましょうか?」
「いや、いい」
あまりにも素っ気ない拒否に、少女の顔が少し曇った。
「髪、ぐちゃぐちゃ──」
少女はそう呟きながら、男の後ろに立ち、慣れた手つきで彼の髪を結い始めた。
「どんなにお疲れでも、身だしなみくらいきちんと整えないと……」
「ああ」
「王様なんですから……自覚あります?」
「ああ」
「……生返事ばかり」
「ああ」
「……できました」
「ああ」
男の長い髪は、あっという間に太い三つ編みに纏まった。
「ゼウス様やポセイドン様と同格の、三大神のうちの一人なんですから」
「むしろそのふたりの兄なんだけれど、な」
男は少女の方を見ずに自嘲気味に微笑み、彼女の分の茶を淹れるために立ち上がった。やかんを火にかけ、乱雑にティーパックをカップに放り込んだ。水はもともと温まっていたらしい。すぐに沸騰し、湯が蒸気と共に口からあふれる。紅茶のかぐわしい香りと湿気が部屋に霧散する。
「地上では、新しい年が始まったそうだな?」
「えぇ、もうそんな時期……。人間達が新年の祝いを各地で開いています」
「さぞや、賑やかなんだろうな? こことは違って」
その言葉尻に僅かに皮肉が込められているのを少女は聞き逃さなかった。男はダージリンティーと角砂糖のポットをテーブルに置き、再び椅子に深々と座った。彼女に、お前も座れ、と手で指示して。
少女は先程から、足を揃えて立ったままだ。
「私はここが好きです。ここにいる皆は真面目で、勤労家で、親切だし」
「しかし空は暗く空気は冷たい。地上で人間が生きて栄える限り、私達の仕事も終わることはない。天と地上がどんなに晴れていても、この地下に光が届く事は永遠にない」
「……」
「今日はどうせ浮かれてるんだろうな、ゼウスとか、アポロンらへんが」
「私は、もう地上の年明けのことはあまり覚えてません。ここに来る前のこの時期のことなど、随分と昔だもの」
男は、意地悪な気分になった。
「帰りたくなったか?」
只でさえ入室からずっと曇りがちな少女の顔が、一層険しくなった。
「お前が『帰りたい』と私に言うのなら、私はお前を地上に帰してやってもいい」
男はやはり彼女の方を見ずに、軽く首を傾げながら挑発的に言い放った。
そして少女は、男の言葉が彼の本意でないと知っている。
これまでずっと男の椅子の後ろに立ち尽くしていた少女は、ここで初めて足を動かした。素早く男の前に出て、氷の矢で射抜くような鋭い眼で男の瞳を暫く見つめて、無言で──彼に抱きついた。
その抱擁は、相手を包み込むような優しいものではなかった。このか細い少女のどこにこんな力があるのかというくらい、一方的に、攻撃的に、ぎゅっと抱き締めあげる。服を通して男の体温が伝わってくると、少女は無言でその温かさを貪った。胸元のアメジストのネックレスが肌に押しつけられて痛いほど。
そして、彼の耳元で囁く。
「分かってるくせに」
意地悪な男は、急に少女がいとおしくなった。
暫くの間素直にその我が儘な抱擁に身を任せると、彼女は身を離し、再び彼の瞳を見た。そこにはあの冷たい視線は、もうない。
「すまない、ペルセポネ。どうにも疲労が溜まってるようだ」
「……全く……旦那様は……」
二人の顔が近づき、重なる瞬間……
「ちわーっす三河屋でーす!」
バリ────────────ン!
──と外から窓ガラスを突き破り飛び込んできたのは──荷物を大量に持った、翼の生えた靴を履いた少年だった。着地に失敗して部屋の端まで転げ、いろんな部位を打ちつけたらしく、にゃおおうと少しの間悶えていたが、気を取り直して立ち上がる。顔にニヤニヤ笑いを浮かべながら。「あれーお邪魔だった? いやーまさか朝っぱからいちゃついてるとは知らなかったなぁー! どうだったぁヘルメス風新年のご挨拶! ビックリしたぁ!? あーもう肘から血ィ出てきちゃったよ、ちょ、もうちょっとリアクションあってもいいんじゃない? 超身体張ったのにぃ!」
空いた口が塞がらない男と少女。只ひとつ彼らがハッキリとわかる事は『絶対にタイミングをはかって飛び込んできた』という事だけである。
「という訳でですねー、朝からお盛んなお二人さんにプレゼント! 新年のお祝いでお供え物たくさん貰ったからお裾分けってんで全部まとめて届けに参りましたー。これゼウスの親父から、これアポロンから、これとこれはポセイドンの伯父貴から、そっちはヘラのオバハンから。あ、アルテミスからの肉は冷凍するか早めに食べること。ちょっと、ハデスのオッサン、ちゃんと聞いてる?」
少年は、持っていた大量の紙袋の中身を一気にぶちまけた。無礼な物言いだが、少年のあっけらかんとした口調には何故か怒りがわかない。ただ、オッサン呼ばわりはやめてほしいと男は心の中で抗議していたのだが。
「そしてこれがデメテル様から」
「!」
「お母さん!」
男と少女の母の仲は決して良好ではなく、その事は常に男の悩みの種だった。かたや少女は少年から引ったくるように袋を受け取り、中から小袋を取り出す。そこにあったのは……麦の粒。
「『植えろ』だってよ、ペルセポネ」
「……お母さん……」
「ああオッサン、デメテル様からことづけ。
『忙しいのは知ってるけど、たまにはこっちに遊びに来なさい。息抜きも大事だから。
どうせお前のこと、仕事ばっかりやって根詰めて自暴自棄になってうちの娘にやつあたりなんかしたら許さないよ』
だって」
一瞬の間。
「……そうか…そうだな……」
男は、気まずそうに頭を掻き、立ち上がって大きく伸びをした。
少女は、母からの贈り物をどうすべきかもてあそんでいる。
そして男は、少年の方を向き、言いにくそうに口を開く。
「なあ、ヘルメス……」
「はいはいはいはい?」
「お前が割ったあの窓のガラス、お前が修理するんだろうな?
風が入ってきて──寒い……」

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