
ハデス
死の国の王。妻との同居は冬の間だけ。ナイーブで寂しがり屋。

ペルセポネ
死の国の女王。冬の間だけ地下の世界でハデスと共に過ごす。春先になったら地上に戻る。

ヘルメス
伝令神。地下の国と地上の国を自由に行き来できる少年。ペルセポネを地上に帰す仕事をしている。

ヘカテ
魔術の女神。死の国ナンバースリーの貴婦人。死の国で暮らしている。
あぁ、この子はもう泣きそうになっている。
「今年もお世話になりました」
深々とお辞儀をし、ゆっくりと頭を上げると、その瞳は不自然な程にきらきらと光を反射していた。少女の夫はこの眼にひどく弱い。本当は今すぐ頭を撫でて抱きしめてやりたいのに。
冬の終わりは少女との別れの時。いや、少女と別れる事でこの冬が終わる。毎年の繰り返しだ。暫くは逢えないが、そのうち彼女は再び妻としてこの館に帰ってくるのだ。そう言い聞かせる。彼女に、そして自分自身に。
開け放った扉から覗く外は良い天候である。もっとも、この地下の国で天気の良し悪しなどは無いに等しい。しかし温度や湿気の具合で過ごしやすさは大きく変わる。今日はどれを取っても快適。妻を気持ち良く送り出してやるには丁度良い日だ。当の本人の顔つきは悪化の一途を辿っているが。
「そんな顔をするな。これが永遠の別れでもあるまいに」
「……何で私達だけ、離れ離れにさせられるのですか」
「最初にそういう約束をしただろう? 一年のうち3分の1は夫婦としてここで、残りは地上で母と過ごすと」
「もうどんなに昔の話でしょう! いつまで経ってもこんな……」
「ペルセポネ」
「ねぇハデス様、私、お母さんに話してみます! 今年からもう一ヶ月、冥界での滞在を延長してもらえるよう! お父様にも! 私、貴方と離れたくない…!」
ほら、そんな顔で私の一番欲しい台詞を簡単に言ってしまうから。
「……帰りなさいペルセポネ。デメテルが待っている。デメテルだけじゃない、お前の帰還は地上の生物の恵みそのものだろう。早く帰って、季節を冬から春へ変えておあげ」
「地上はこれから暖かい春を迎えるのに、貴方はずっとこの冷たい地下にいなきゃならない。あんまりだわ! 私がここにいられないのなら、貴方が私と一緒に地上に来ればいい! 日の当たる場所で二人で暮らしましょう!?」
「……それこそ同意できない提案だな。私はここでの職務を放り出す訳にはいかない。ペルセポネ、いい加減駄々をこねるのはやめなさい。わかっているだろう」
──私だって、お前とずっと一緒に寄り添え合えればどんなにいいか、と思わず言いかけ、しかしそれを言ってしまうと己が内の沸き立つようなドロリとした感情に歯止めが効かなくなる事を男は知っていた。
“いっそこの子を冥府の底に閉じこめてやろうか”
衝動が瞬時に身体を駆け巡る。彼女を我が物とするためにはどんな犠牲もいとわないと。彼女と共にいられるのなら何がどうなろうとも──
「……いかんな」
ここまで思い詰めたところで、男はやっと正気に戻った。頭を振る。
再び過去の過ちを犯そうと言うのか、私は。
「……すみません」
彼の洩らした呟きを自分への叱責と受け取ったらしい少女は一層しおらしくなり、伏し目がちになってしまった。ハデスの胸にいとおしさが去来する。そして、年上らしく励ました。
「次逢える日などあっという間に来る。それに私は大丈夫だ。お前の事を想って過ごせば、全然」
「ハデス様……私も……」
少女は男の首に腕を回し、ゆっくり背伸びして顔を近づけ……
ピ───────────────!
「はいそこのバカップルーいい加減そのクソ甘い儀式を終わらせなさいー。これでイエローカード3枚ーはい退場ー即刻退場ー。ペルセポネさんは速やかに出発の用意をして下さーい」
いきなりホイッスルを吹きメガホンで割って入ったのは、さっきから脇で暇そうに二人の様子を観察していたヘルメス少年。直後電子音が鳴り、少年は懐から夫婦に見せつけるようにトランシーバーを取り出した。
「あーあー、こちらヘルメスこちらヘルメス、聞こえますかどぞー。あ、デメテル様? もーすみませんねーあの人達館の玄関先でずっとイチャイチャしてまして……。……はい、……はいすみません、あぁそれはもちろん! 安全を最優先に送り届けますんで! はい! ……えぇわかりました近くまで来たらまた連絡しますんでー。あい、お疲れっしたー」
ぴっ、と通信を切り、顔を引きつらせながら声を張り上げる少年。
「アンタらのおかーさんは立派なクレーマーだな! 何度目の問合せだ、まったく!」
「あらまペルセポネ、まだ出発してなかったの!?」
階上から貴婦人も出てきた。上から身を乗り出し彼女に話しかけると、それに少年がくたびれた様子で答える。
「ヘカテさーん俺もうやだー! すげーシカトされるんだもん言うこと聞いてくんないんだもん! ずっと二人の世界に入ってんの! 仕事になんねー!」
婦人は、それはお気の毒、という風に手をヒラヒラさせて少年をあしらい。
「ヘルメス、デメテルに伝えてくんない? 今育ててる新種の草の苗を今度わけてって。50株くらい」
「ああ偉大なる魔女の母ヘカテ様、そんなものよりいっそあなたのお力でこのオッサンとお嬢さんに睡眠薬を打ち込んでやってくれないかしら! 『ハデス様、私帰りたくない!』『ペルセポネ、君を帰したくない!』『ジュテーェェム!』こんなサブイボ立つよな鬱陶しい会話をずーっと聞かされてる俺って可哀想だと思わない!?」
「年がら年中減らず口しか叩かないお喋り坊主がよく言えるわね」
「おーおーさすが魔女、言葉ひとつにも毒を仕込むとは! それは何ですかい? ベニテングダケ? トリカブト?」
「ヘカテのツッコミと言う名の毒針よ」
さて、退場勧告を受けてしまった少女は、観念したように大きくため息をついて苦笑した。
「そうよね、もうそろそろ行かないと。お母さんが待ってるしヘルメスが困ってるわ。
──またすぐに逢えるもの。あっという間だもの……」
そこには、さっきの潤んだ目はもうない。
「冥妃『ペルセポネ』は、これより春の女神『コレー』として地上に帰還致します。冥王様、また逢う日までどうかお元気で」
男は一瞬表情を崩しそうになったが、なんとか我慢して餞別の一言を絞り出した。
「道中気をつけて、母と仲良く暮らしなさい」
***
少年は少女を背におぶり荷物を抱えて外の開けた庭に出、その羽根付き靴と帽子の力でふぅわりと宙に浮いた。みるみる風が集まり、その靴でポンと宙を蹴ると彼は一気に空に上昇した。びゅうびゅうと空気がいななき、まもなく、人が立っているのもやっとの程の嵐が少年を軸に取り囲む。
「ヘルメス、頼むぞ」
「おいっス」
そして、一迅の突風は地上で待っている少女の母を目指して一目散に吹き抜けていった。
残された男の長い髪はその勢いでぐしゃぐしゃに乱れてしまった。毎朝少女が丁寧に結ってくれたこの三つ編みも、明日からは独りで整えないと……。
まだ辛うじて形をとどめている部分を撫で、男は小さくため息をつく。
「……いつまで経っても慣れないものだな、ヘカテ」
「そのようですわね。ここもまた寂しくなりますわ」
「さて、あの子にああ言った手前、いつまでもウジウジしてる訳にもいかん。仕事に戻るぞ」
少年の巻き起こした風は未だやむ気配がなく、渦を巻いて落ち葉を舞い散らしている。あの子が地上に着くのはいつ頃だろうか、と、男はふと空を見上げた。
春一番が吹けば、春はすぐそこ。しかしその風の音は少しもの悲しく、冬の余韻を吹き消すように駆け抜けていく。

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