「……ずるい」
唇と舌が離れた時の音が、冷たくて広くて薄暗い空間に、そしてあたしのぼやけた頭にこだましてる。
「本当に愛していたんだ。愛していたからお前を大事にしすぎてしまった。何もかもを許してしまったから、だからふたりともすれ違って傷ついた」
「取り返しのつかない惨事だわ」
「国ひとつが滅ぶくらい?」
「その国が滅ぶ瞬間に憎い男と口づけを交わすお姫様って最低ね」
「俺が憎い?」
「憎いわ。憎い、憎くてたまらない。貴方さえ愛さなければ、貴方とさえ愛し合わなければ」
「俺を愛してる?」
「愛してる。あたしずっと貴方を愛してたのよ、ずっと!」
彼の広い背中を掻き抱く手が止まらない。心ではちゃんとわかってた、『あれ』は所詮未来の幻像なんだって。でも、彼がもしあたしを捨てるだなんて、一度心をよぎれば考えただけでも恐ろしくて狂いそうで壊れそうで耐えられなかった! いや! あたしを捨てないで! あたし素直になれないけど本当に貴方が好きなの! だから捨てないで! あたしを捨てないで!
だから、自分から距離を取らざるを得なかった。『貴方に捨てらる未来』が怖くて。そしたら、まさかこんな仕打ちを受けるなんて、思ってなかったから! あたしは態度もでかいし傲慢だし、素直じゃないわよ。でも嘘はついたことない! 信じて! 一番苦しかったのが、周囲の皆からあたしの予言を信じてもらえない事よりも、何よりも、貴方に誤解されたまま仲が途絶えたことだった。
「俺を信じろ」と彼は言った。
「あたしを信じて」とあたしは願った。
じゃあ、あたしは彼を信じたの? 彼はあたしを信じたの?
ふたりとも、どこから道を誤った?
城下町は今頃燃えているのだろう。熱を孕んだ空気が微かにここまで届いている。あたし達はひどく殺那的で背徳的な感情に酔いながら、夢中で抱擁しあった。
「このままだと、結局お前の予知通りになるな」
「え?」
「『殿中で男に』、その続きは何だっけ? お姫様」
「馬鹿、やめて。ここは処女神アテナの神殿で、あたしは今は巫女よ」
「豪胆な女め。10年前の夜は無きものか?」
「あの事は誰にも喋ってない。あれ以来誰とも関係してないわ」
「知っている」
もし他の男と寝ていたら、とっくにそいつとお前を殺していた――とあたしの耳元で囁くアポロン。横にはアイアスの死体が転がっている。
「アテナの神罰が下るわ」
「なに、あの堅物は俺が適当にいなすさ」
「やっぱり駄目、駄目よ」
「今さら照れるやつがあるか。お前はこれから俺の子を産むのだから」
……え?
今、さらっと、なんて?
「ちょ、アポロンさん、マジ、マジちょいすとっぷ」
「いや」
「待てって言ってるでしょうがああああ!」
「ぎゅむっ!」
あたしの襟元をはだけさせて肩に顔をうずめてた奴の頭を引っ張って再び頬を思いっきし掴む。
……あ、これ結構効くみたい。これやると動きが止まるな、こいつ。
「ちょっと待ってやっぱり貴方最低かもしれない。何て!? 貴方今何て言った!?」
「ふぁふぁふぁー……」
「聞・こ・え・ま・せ・んッ!」
もう片方の手で今度は鼻の穴を広げてやる。ほ、ほ! 不細工! さようならロマンチックなムード!
あたしのお腹をぺちぺち叩くので解放してやったら、至極不満げに膨れっ面をして腕を組んだアポロンさん。「だから、お前をデルポイに連れていくんだ!」
「はあ!?」
「今日俺がここに降りた第一の理由、それは、お前を改めて俺の花嫁に迎えようと思ったためだ! お前ちょうど身よりもなくなったんだし! 国捨てて! 今度こそ! 俺ンとこに!」
「馬鹿――――! 最低――――!」あたしの今日イチの大絶叫が、大惨事のトロイアに響き渡った。
「なんでなの!? なんで貴方そんなに自分勝手なの!? あたしの意思はどこ!? 『ちょうど身よりもなくなった』? 有り得ない何その発言! それに子どもの算段までしてんじゃないわよ、最低男! 貴方が神だかなんだか知りませんけど子を産むのは女よ! あたしよ! 出産がどんなに女にとって一大事かわかってる!? アポロン様でも、ああ全知全能のゼウス様でも唯一成し遂げていない事、それが出産よ!」
アポロンはチッチッチ、と人差し指を振った。「俺の親父は二度出産を経験した! 一度めはアテナを頭蓋から、二度めはディオニュソスを太ももから!」
「ええええその話って真実なの!? 変態極まれりね! この変態一族!」
「俺の一族を罵倒するのは許さんぞ妻よ!」
「妻言うな!」
床の上、押し倒し押し倒された体勢のまま暫く罵りあうあたし達。
……何でなのよ、何でまたプロポーズしてくるのよ。
好き。あたしは確かに彼が好きなんだわ。この、無神経でわがままで最低な人でなしが。
「でも今回は受け入れてくれるだろ!? お互い、昔より成長してるだろう!? カッサンドラ!」
……でも、譲れないものがある。あたしは、彼の視線を振りほどくように首を横に振った。
「俺を愛しているんじゃないのか!?」
「貴方を愛しているからこそよ」
あたし達、愛し合ってる。でも、共に歩めない。
「あたしは、トロイアの王族よ。デルポイですって? 敵の、ギリシアの一国の元へ、ぬくぬくと幸せに暮らす? できっこないわ。父様、兄様、民達の無念をよそに、あたしだけ幸せになるの?」
「生き残ったお前が“一国の姫”という呪縛から解き放たれひとりの女として幸福に生きる、何が悪い!?」
「良い悪いじゃないわ! あたしの中で納得がいかないのよ!」
「今しがた気持ちを確認しあったではないか!」
「結婚となると話は別物! そんなのできない! 絶対に!」
駄目。駄目。馬鹿アポロン。あたしはもうとっくに運命を受け入れてたのに。なんで今頃になって迎えに来てくれたのよ。
「どうせふたりともそのうち苦しくなるわ。不死の貴方と老いるあたし。きっと、最初の予知通りになる」
「俺が神々にかけ合ってお前を不老不死にしてやるから!」
「それこそ苦行よ! 滅んだ祖国を想いながら永遠に生きるなんて!」
「力ずくで連れて帰る」
「ああ、駄目。お願い、アポロン」
もういや。やめて。くるしい。
「合点がいかない。しかし惹かれてやまない。最初俺はお前の美しさを見初めたが、心底惚れたのは、お前の芯の強さと潔さなのだ。高潔な女。それ故にお前の魂は美しい。時が経っても内面の気高さは変わらなかった。このアポロンを振る高慢な女。俺はお前を諦めんぞ」
黄金の瞳があたしをじりじりと刺した。ああ、あたしはその目線が大好きなのよ。でも、言わなきゃ。言わなきゃいけない、お別れの言葉を。
「あたしはトロイアの姫カッサンドラとして生きた。生きる。生きたい。そして……死にたい」
ほら、あたし。最後の言葉よ。笑って。
「あたしは貴方とは一緒にならない。デルポイにも行かない。予知どおり、アガメムノン王と共に殺される」
悲しみと怒りの混じった顔があたしの瞳に大きく迫り、そして三度めの口づけであたしの意識はホワイトアウトした。
この世で最も恐ろしい呪い
それは
己が心に宿れば最後
全てを焼きつくし
灰と化すまで止まぬ
恋慕の情である。

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