カッサンドラ - 3/4

「何が『ずっと見てた』だって!? 『俺の』!? ああ!? どの口が言ったどの口がああああ!」

「かっっ、かっひゃんろら!」

「貴方だけは許さないんだからあああああ!」

立ち上がってほっぺをぎゅむっと掴んで顔をガッコンガッコン揺すってやると、アポロンはなんて情けない顔つきだこと!そう、この10年間、憎んで憎んで憎み倒した男! 別れたあの日、次に会う時はどんな制裁を与えてやろうかとそればかり考えていた!

「やめろ! おれは神らぞ!」

「知ったもんか! トロイアの姫なめんな! 貴方のせいで! 貴方のせいで、あたしは全部台無しになったんだから! 何もかも貴方のせいよ! 貴方のせい!」

「おちつけ……」

「貴方のせいなんだからああああ!」

叫んだ拍子に彼を掴んでいた手の力が抜けてしまった。だらしなく揺れるあたしの腕には、ブレスレットが無い。リングも無い。イヤリングも、ネックレスも、髪飾りも無い! ドレスの裾はほつれて、素足の爪は割れてる。惨めさに涙が出てくる。いっそ大声で泣いて泣いて、意識がなくなるまで泣いてしまいたい。

アポロンは頬をさすりながら、あたしを真っ直ぐに見つめて言った。

「……カッサンドラ」

「貴方があたしに近づかなかったら、こんな事にならなかった! 貴方があたしを誘惑したから! だから! だからよ!」

「お前が俺を裏切って逃げたのが悪い」

「いいえ悪いのは貴方の方よ! 人間は神の玩具なんだわ。言い様に遊ばれて、適当に潰しあいをさせられて、はいおしまい、楽しかった、こんなもんでしょ? あたしは貴方の都合のいい人形だったんでしょ!?」

「違う、カッサンドラ」

「あたしを天から眺めてて面白かった? 滑稽だった!? 貴方の手の内で上手に踊れてた!?
馬鹿! アポロンの馬鹿! 裏切ったのは貴方の方なのよ!」

――10年以上前。このひとが私の前に現れた。彼はあたしにプロポーズを申し込んできた。

あたしは――断った。若かったし、怖かったから。神様のお嫁様になるのが。

すると、彼は、あたしに力を授けた。愛の証拠だって言って。婚約の証しにって。

その婚約の証し──“先見の力”で見えたもの。それは、年老いた醜いあたしが彼に捨てられる未来だった。

***

「……予知能力について、だ」

帽子を取り、頭をかきながら神妙な顔つきで彼は口を開いた。相変わらず不思議な服装。変に時代がかってるのか、それとも流行の最先端を更に先越してるのか。まあこのひと一応神様だから何でもアリなんだろうけど。

……突然あたしの部屋に忍びこんできて「貴女の美しい瞳に胸を射抜かれました結婚を前提に付き合って下さい」だものね。「了承してくれないなら毎夜通って口説き倒す」って。んで、名前を問い詰めれば「我は神アポロンなり!」って!もう喉が裂けんばかりに叫んだわよ、あたし。頭のおかしい変質者が現れたって。すぐに人が集まって来たけど、すると貴方は消えてしまうの。あたし以外には姿を見せたくないのね。

そうやって、誰も知らない逢瀬が始まった。

あの時と同じ格好をした彼は、年取ったあたしを宥め始める。

「あの力は、本来人間などに授けてはならない高精度な物だ。だが、正確な予知など不可能。現に、今俺がここに来る事をお前は予知していなかったろう? 『全てが完全に的中するものではない』。お前にこれを与えた時、俺は最初にそう言わなかったか?」

「そんな昔のこと覚えてないわ」

「何故あの時俺を信じなかった? 何故予知した未来より、今そこにある俺の愛を信じなかった?」

「そんなの、詭弁よ! あたしが……あの時どんなに傷ついたと思ってんの!? 貴方に好きなだけ遊ばれてふられる未来像なんて……! 未来より今を信用しろ、ですって!?」

詭弁はあたしの方。現実より現実的な未来って何?

「じゃあそもそも何故あの時こんな能力をあたしに与えたのよ!? あたしこんなの欲しいって言った!?」

「……『彼氏とお揃い』って、女は喜ぶものじゃないのか?」

絶句。

「待て待て待て待て! どこへ行く!」

踵を返すあたしを未練がましく追ってくる神。すぐに追いつかれ、前に立ちはだかってきた。

「まだ話しは終わってないぞ!」

「どいて。ここ寒いの」

「俺が暖めてやる!」

「貴方の変態的発言がさらに寒いの。さようなら」

両手を広げる彼からすばやく逃げたけど、でも次の一言で、あたしの足は再び止まった。

「俺を信じてくれ!」

“信じてくれ”ですって?

「今更貴方にそんな事言える資格はあるの!? あたしをこんな目に合わせておいて! あたしは貴方のせいで『誰も信じてくれない女』になったのに! 最低、最低よ貴方!」

アポロンに予知能力を与えられたあたしは、彼から逃げた。彼は「約束が違う」と言って怒り、予言者となったあたしに、たったひとつの呪いを与えた。“カッサンドラの予言は誰も信じない”という、呪いを。

そこからのあたしの顛末はというと、ああ、思い出したくもない。思い出せない!

「貴方があんな力を与えたから! そして呪いをかけたから! お陰であたしは、この戦争も、この国が滅びるのも、全部知ってしまった! なのに誰も信じてくれない! 皆であたしを狂人扱いして、誰も、誰も信じてくれない! あたしはトロイアの姫なのに、父様も母様も、兄様達も、従者も召使いも友達も、皆信じてくれない! 全部知ってるあたしがこの国を救わなきゃいけなかったのに、救えなかった! 皆信じてくれなかった!!
ねえ、貴方の呪いがどれ程苦しかったかわかる? 実感できる? 何度も死のうかと思ったわ! でもあたしが死んだら誰がトロイアを救うのよ……! 結局、救えなかったけど……!」

最後の方は、もう声にならなかった。

無惨に殺されたヘクトル兄様。慟哭する父様、母様。意識を失った義姉様。傷の癒えないパリス兄様。そのまま死んだパリス兄様。皺々の細腕を振り上げて、戦おうとする父様。そして死んだ父様。
そしてこれからの、残された女達の未来。敗戦国の女は勝利者達に奴隷として分配されるのが世の常。召し使いか、愛妾か、娼婦宿に売られるか。まともな人生は絶たれたも同然……

「泣くな、カッサンドラ」

「泣いてないわ! これは汗よ!」

「お前の美しい目は毛穴か。そして立て、ほら」

「いや! 立たない! 足疲れたの! それだけよ!」

自暴自棄にしゃがみこんで腕ぶんぶん振り回すと幼い頃に戻ったみたい。アポロンは自分もそこにしゃがんで幼児を諭すみたいにあたしの頭をわしわし撫でてきた。

「昔から気の強さだけはそこいらの将軍よりあるよなあ、お前」

「どういたしまして。可愛げがなくて結構!」

「ヘクトルも根性据わった奴だった。パリスは、うーん暴走ぶりがやっぱりお前と似てたかな。うん。──俺はこの戦争でトロイア側についていた。勝たせるつもりだったが、できなかった。敗北を回避できたのにできなかった、という点はお前と同じだ。助力及ばず申し訳ない」

「後の祭りよ」

「ああそうだ。もう何もかも遅い」

神殿の天井の近くについている明り窓からは、今日は月も星も見えない。あるのは真っ黒な煙。今日はよく乾燥していたし風も強い。恵みの雨が降る気配もない。残酷に時は刻まれる。ゼウス神からも、クロノス神からも、そして戦神アテナとアレスにも、神々皆からトロイアは見捨てられたんだわ。

……いや、違う。ただひとりだけ、この国にまだ残る神がいる。あたしに逢いにきた、あたしを救ってくれた、昔あたしを捨てて、そして今また拾いにきたらしい、自信家でマイペースで少し間抜けな男が。

「……じゃあアポロン、貴方なんで、あんなひどい呪いをあたしにかけたの?」

「知りたいか?」

本音を明かす時は勿体ぶった言い方をするのがこのひとの昔からの癖。こんな時、あたしはいつも素直に首を振らなかった。そして、あたしもやっぱり勿体ぶった口調で先を促す。

「このまま知らずにいるのは癪だわ」

いつの間にか、身体がくっつきそう。彼の大きな両手が、長い指が、あたしの髪や頬や額を撫でて、そして顔を背けられないようがっしと支えられる。彼の瞳には少し強張ったあたしの顔が映ってる。あたしの瞳には彼の真面目ぶった顔が映ってるんだろう。

「一度しか言わないからよく聞け」

無言で頷く。

「……全ての人間に信じてもらえなくなったら、きっと俺を、頼ってくると思って。――俺を愛してくれ、カッサンドラ」

そのびっくりするほど情けない声に答える間もなく、あたしの唇は彼に塞がれた。

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