「本当だったのか。トロイアの姫君の神がかりぶりは」
「まあね」
「だが小娘の虚言だ」
「ええ、別に信じて貰わなくて結構よ。詐欺師扱いされるのには慣れてるの」
「そもそもわしは、神など信じてない。全て古代人の妄想だ。あのアテナの石像だって、壊してやっても何も恐ろしくない」
神殿内の多数の女神像を見回しながら、アイアスは大声を出した。「神などいない!」
……そのわりには脂汗すごいな、おっちゃん。
アイアスは口許引きつらせて不敵に笑いながら、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しいと繰り返し唱えた。「ああ、馬鹿馬鹿しい、しょうもない! だが唯一正解だ、確かに我らの総大将アガメムノン王は、ギリシア軍勝利の暁には神々をも魅了しかねん美しさと評判の貴様を第一の奴隷にするとご所望されていた。確かにな。誰でも当てられる簡単な予想問題だ」
「そうね、偶然かもしれないわね。そういうことにしといたげる」
あたしの態度が気に入らないらしい、アイアスは語気を荒くして続ける。「わしはギリシア軍の中で誰よりも泳ぎが上手いのだ! 知らぬのか!? わしが溺死など、そんな死に様だけはありえん! いんちき女め!」
「あらそうだったの。じゃあそれもそういうことにしといたげる」
ぐっ、という男の喉の鳴る音が聞こえた気がした。不格好に腕をぶんぶん回してしつこくまだ続ける。「お前は、お前はどうなんだ!? 自分の死の予知を、受け入れられるのか!?」
「受け入れるも受け入れられないも、夜の度に夢で視ちゃうんだもん。最初はショックだったけど、こうも自分の夢の内容と現実がマッチしまくっちゃうと、信じるなって言う方が無理な話よ。だからあたしはあんたにここで凌辱されるこの展開も知ってた。知ってたからここに逃げ込んだの。あたしの予言は今のところ絶対に的中してるの。だったらおとなしくヤられてやろーじゃないの。どうせもうすぐ死ぬんだしね! あんたもあたしも! ……ってさっきまで考えてたんだけどあんたのキモいルックス見たら生理的嫌悪が湧いてきたからやっぱ全力で抵抗する事にした」
「なんだこの女!? 天下の武将に向かって口の聞き方を知らぬのか!?」
「自分で自分の事をよく言えるわね『小アイアス』! この戦の10年間、神将アキレウスの後にくっついてくしか能のなかった凡人ふぜいが! お見通しなのよ全部!」
「……何だと」
図星がクリティカルヒットしたらしい。顔がゆでタコのようにみるみる赤くなっていく。
と、剣を引き抜き思いっきり振り回して突進してきた! ヤバい、オッサン目がマジだ!
「無礼千万なるぞこの売女ァァア! あんな無能大将アガメムノンなどに引き渡さぬ! 生意気なアキレウスにも性悪オデュッセウスにもぉぉぉ! どいつもこいつもわしを小物扱いして! もうひとりのアイアスが『大アイアス』でわしが『小アイアス』!! 小さいアイアス! あいつらあああ呼ばれる俺の気にもなってみろ! 大アイアス氏が自殺した後もわしはやっぱり『小アイアス』! あいつらあああ! ちっさいちっさい言いやがってあいつらあああああ!」
「そんな内部事情までは知らないし聞いてないわよ!」
懐の隠し小刀で半狂乱のオッサンに対抗するも、ムリムリ! 服の裾が足に絡まって……
「とおぅりゃッ!」
「きゃん! 痛ッ!」
その裾を踏まれてこけた!
息を殺して仁王立ちし、あたしの頭上に剣をまっすぐ掲げるアイアス。
――絶体絶命。
「いやぁぁぁあ! ヘクトル兄様助けてぇぇ!」
顔を背け咄嗟に叫ぶ、親しかった兄の名。そして、こんなこと叫びながらも、心のどこかでは早く兄の元へ――
が、その時場を射る低い一声が殿中に響いた。
「お前の兄じゃなくて悪いな」
反射的に顔をあげると、アイアスの後ろに暗い影が。薄暗いせいではっきり見えない。
「本来俺の顔も見たくないのだろうが、惚れた女の叫び声を聞いて駆けつけないような甲斐性なしの男じゃないぞ、俺は」
貴方、と動いた口。声は出なかった。
「ううっ」
そして突然アイアスが呻き声をあげた。顔色が黒ずんでいき、血管が浮き、目が飛び出さんばかりに開き、黒目がゆっくり、ゆっくり、まるで太陽が天に昇るように――
「見るな! カッサンドラ!」
命じられたままあたしは固く瞳を閉じた。アイアスの呻き声は、だんだん、もう声ではない、恐ろしい破損音へと変わっていった。長い時間だった。しかしこの間、あたしの心拍を激しく揺さぶっていたのは、恐怖心よりむしろ──
(あのひとだ)
あの存在感。あの声。
(あのひとが、あたしの元に、また)
こんな筋書き、予知にはなかった。『彼』との再会だなんて、これ以上動揺するもの、ないわ。
ズン、という衝撃。男の身体が倒れた音だろう。
――どうしよう、鼓動が止まらない。どんな顔をすればいいのよ!
思いきって瞼を開けると、灰色の床が。そしてそこに降りる、スマートで背の高い男の影。
深呼吸して、声を振り絞った。あたしの口から出たのは、全然ロマンチックじゃない一言。
「……死んだの?」
「心肺を停止させた。『アテナの怒りを買って溺死』だって? 後で死体を海に投げ込んでおけ、それで辻褄が合うだろう」
「……ひどいわね、相変わらず」
あたしは身体を起こして、見上げる。彼は、昔と何一つ変わらぬ若々しい姿。黄金の瞳が私を捉えてる。
「お久しぶり、神様」
「俺はお前を見てたぞ、空から、ずっと」
彼は私の顎に手を添えて、唇に軽くキスをした。
「……俺のカッサンドラ」
「どの口が言うかああああッ!」
「ぐふぅ!」
あたしの平手打ちが、天下の美形神アポロンの頬に美しく決まった。

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