愛しのダーリン - 3/3

『もうそろそろ切らなきゃ。彼が来るから』

気まぐれな女は唐突に別れを切り出す。やはり昔からだった。

「アレス?」

『秘密。気になる? 妬いてる?』

「バーカ」

『あたしは妬くわ。妬いてた。あの小娘に。昔、ほんのちょっとだけ』

「あの小僧とデキてたのは誰だ?」

『あはっ、それはそうよね! でも貴方もちょっと妬いたでしょ、さっきもアレスの事を“あんなの”って』

「うっせーな揚げ足取るな馬鹿!」

『ヤだアタリ!? ああもう、何でこんなに貴方って面白いのかしら。ね、もっかい結婚しよって言ったらあたしと結婚してくれる?』

「する気もないのにそういう事言わないの。お前とはこのくらいの仲で十分です、まったく」

昔からだ。昔からこの距離感――本当は仲が険悪な訳ではない。嫌いあってなどいない。ただ少しだけ、ほんの少しだけ、互いの心の方向性が噛み合わなかっただけだ。

『また遊びに行きましょう、ふたりで。貴方に貰ったカメラを持って、シチリアの水平線を見に行くわ』

「別れた男に言う科白か」

夫婦となるべき相手ではなかっただけだ。

『ねー、あたし達、何で結婚したんだっけー?』

「何でだったなー」

『じゃあ、何で離婚したんだっけー?』

「……何でだったなー」

結局、全てはここに集約される。

“何故自分はこのひとを伴侶として愛せなかったのだろう”

……と。

「じゃ、またな」

『アグライアをよろしくね』

「……ゴツい名前してやがる」

『実は“ugly”ってアダ名をつけられて苛められてたのよ。貴方なら彼女の気持ちがわかるわよね?』

「……お前、やっぱり性格悪いわ」

『愛しい元旦那、おやすみなさい』

そう歯切れ良く言い放ち、アプロディテは電話を切った。

翌朝、問題の彼女を再び自室に呼び出した。赤毛そばかすの小柄な娘の熱意と萎縮と緊張の入り交じった瞳は、ヘパイストスには大変居心地の悪いものだった。そして考えた。屋内外問わず色つき眼鏡で顔を覆っている自分の視線を、彼女はどう受け止めているのだろうか、と。自分のどこを気に入っているのだろう、と。

乱雑な部屋のテーブル回りを無理やり片付けて、お腹を空かせているだろう彼女に朝御飯と手作りプリン――昨晩の電話の後に作ったらしい――を食べさせてやり、コーヒーか紅茶か聞くとどっちも苦手と言うのでホットミルクを出してやり、彼女が一服している間に彼はパソコンでのたのたメールを打っている。宛先はあの弟子共である。納期の迫っている品があるからちょっと急いでね、そして今月の飲み会はいつやりますか、と書きつつ、頭の中ではさて彼女をどうしたもんかの一念のみ。

その自分の真後ろ、画面ごしに、あの空と海の写真がいやに挑発的にひらひら風に靡いているのが見えた。

……あーあ、もう。笑うんじゃねーよ。お前に挑発されなくてもわかってるっつーの。

ヘパイストスは彼女の方を見ずに、パソコンに向かったままいきなり切り出す。

「どうしてもやりたいって言うんなら鍛冶仕事するのは無理に止めませんけど、そのうち音を上げるんなら傷こさえる前にあのアバズレんとこにさっさと帰りなさい。こっちは貴女ひとりに構ってやる余裕無いですから。

……でもまあ、鍛冶の仕事じゃなくて、事務で人手が欲しいんですよね、今ちょうど」

我ながら甘すぎるな、とヘパイストスは内心つくづく思い、自己嫌悪に陥りそうになる。彼は自分がここまでひとに慕われる所以に、気づいてそうで、未だに気づいていない。

「あの大勢いる弟子軍団の管理と、来客へのお茶出しと、あと……電話番。求人出すのめんどいから、もし貴女がいいんなら雇ってもいいんだけど。どうします? アグライア」

少女は暫く無言で、そしてポツリと声を震わせた。

「名前覚えてもらえた……!」

「え!? そこ!? そこに反応するの!?」

ぐりんと振り向くとぼたぼた涙を流す彼女が再び口を開いた。「私頑張りますぅ!そんでヘパイストス様のお嫁様に」

「それはまだ先ッ! ああもうちゃんと働かなかったらソッコークビにすっからな!」

「いや~ん初めてツッコまれたぁ~! 嬉しい~! 私幸せですぅ~!」

頬を赤らめてくねくね悶えるアグライアにヘパイストスは意識が遥か彼方へ飛び去ってしまうかのような目眩を覚え、天井を仰ぎ咆哮した。

「やっぱり全然似てねーよッッ! バーカ!」

「何の事ですかぁ?」

「秘密ですッ」

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