「……お前相変わらず性格悪ィな! ごちゃごちゃごちゃごちゃよぉ」
さっきの丁寧な口調からうって変わって巻き舌に舌打ちを繰り出すヘパイストスに、受話器越しのアプロディテは『ふふん』と含み笑いを洩らす。その彼女の態度にもそうだし、何よりも別れた妻に新しい交際相手を紹介される己の情けなさにただ無性に苛々して、空いている方の片手で上着のポケットの煙草箱を手繰り寄せ、器用に一本出して口にくわえて更にライターで火をつけた。
『またニコチン? 着火の音が聞こえたわよぉ。ふふ、あたし、そのにおい苦手だったわぁ』
「俺ァお前のきつい香水がいつも胸クソ悪かったな」
『じゃあ、あたしは貴方の気障ったらしい上辺だけの丁寧語が嫌いだったぁ』
「語尾のだらしなさが気に喰わん」
『ひとに厳しく言うくせに自分には弛いところが嫌い。どうせ今でも部屋はぐちゃぐちゃで無精髭生やしてるんでしょ。そのくせにあたしには身だしなみに気を配れってああだこうだ煩くって』
「仕事疲れの目の前を半裸でうろうろされたら誰だって嫌味の一つ言いたくなるっつーの」
『あはっ酷い言葉ァ! それじゃああたしがあたしの仕事をサボってるみたいじゃない! あたしは愛欲の女神なのよ! 貴方を誘惑し』
「知るか!」
一喝怒鳴られ彼女はゲラゲラ笑い出した。体面だけの夫婦生活をしていた頃から全く変化しないやりとりだった。
そんな可能性は全く無いが、煙が電話を通じて彼女の元に届いているような錯覚を感じ、灰皿にまだ半分以上残っている煙草を押しつけた。ふと顔を向けると、目線の先の壁には小さい風景写真があった。昔、カメラを作った時、アプロディテが撮った写真だった。やはり美的感覚が優れているのだろう、撮らせると上手かった。一番印象的な写真を、別れた後もまだ壁に貼っているくらい。
アプロディテが撮った、真っ青の空と紺碧の海の写真。この島で撮った。もう色褪せて黄ばんでいる。
『……と、ちょっとねえ』
受話器から洩れる甲高い声に「はいはい」と小さく相槌を打ちながら、ヘパイストスは、そういえば夫婦ふたりの写真を撮った記憶が無いな、と初めて気がついた。
『あたし達ってほんと変な夫婦だったわねぇ。あの時――自分を捨てた実母ヘラへの復讐を遂げて、その見返りとしてあたしが貴方に差し出されたあの遠い昔――ゼウスやヘラや、周りにのせられて貴方のところへ嫁いでみたものの、本当にどこまでもウマが合わなかったものね、お互い、昔も今も』
と、どこか愉しげな彼女。ヘパイストスはコードレスフォンの持ち手と聞き耳を変えてやる気のなさそうな声で「まったくだな」と軽い相槌を打った。
『で、貴方に恋するアグライアちゃんのお話なんだけどぉ、まあ概要はさっき言った通り。質問は? スリーサイズとか好きな色とか知りたい?』
「……まずな、あの娘、鍛冶修行希望でうちに来たんだわ。これどーいう事?」
『昔から造型フェチだったのよねー彼女。ものづくりが好きなんだって。だからあながち嘘はついてないのよ。押し掛けた一番の理由は貴方のお嫁さんになるためだけど、鍛冶の勉強がしたいのも本音で本気だと思う』
「俺が女にやらせると思うか?」
『いーえ、貴方に限って無いと思ってた。でも、アグライアの最終目標は貴方の妻の座だから』
「そこが気に入らねえんだよ」と頭をがしがし掻いて、机上の義足のバンドを弛める。「なら最初からそう言ってここに来い」
『最初からそういう風に言ったら貴方は彼女に面会した?』
「いいや顔見る前に追い返してた」
『ほらやっぱり!』と途端にアプロディテは得意気な声をあげる。反対にヘパイストスは忌々し気に口を尖らす。
「それから、似てねぇよ、アテナの嬢ちゃんに。全然」
『やっぱりそこに引っ掛かるのね。似てるわよぉ、あの変人っぷりが。どうよ、アテナじゃないけど、アテナに近いノリの娘は』
「……お前はあの娘をアテナの代替品にさせるつもりか」
『下衆な言い方ね! 例え今は“誰かさんの代わり”でもきっと貴方ならアグライアの本質を愛せるようになるわ』
「お前は俺を何だと思ってるんだ!」
『元旦那』
「“誰かの代わり”で再婚するほど俺ぁ悪人でも偽善者でもねーよ」
『“代わり”は所詮“代わり”でしかないものね。“代わり”を“本物”の代わりに抱いてたらいつか“本物”への想いが暴発するかもしれないし』
「誰がそんな事言った!? 彼女に失礼だって言ってるんだ!」
『彼女ってどっち? アグライア? アテナ?』
「――どっちもだ!!」
『声、荒げないでよ。でもそこで律儀にマジになるところは好きよ。数少ない好きなところよ! あ、あと貴方の手作りスープも好き!』
ヘパイストスはいっそ電話を壁に投げつけてやろうかと思案したが後で修理する自分がありありと思い浮かんだのですんでのところでやめておいた。揺れる写真がアプロディテの肩を揺らして笑っているシルエットを連想させ、思わずそれに向かって「お前には敵う気がしねーわ」と嘯くと受話器の向こうの女も女で『あたしもね!』と笑っている。
「最近どうだ、その、アレスと」と、ヘパイストスは実弟でありアプロディテの情夫で、彼と彼女の仲を決裂させた張本人の名をわざと出した。長電話は好きではない。さっさと切り上げたかった。
『別に。特に変わんないわよぉ。相変わらずあの子お馬鹿さんだけど』
「あっそう。あいつをあんまり甘やかすなよ、叱るときはしっかりな。悪いことをした後、すぐに叱れ。じゃないと何で叱られたか理解できないから」
『やだぁ、それ何の動物よ』
「だからあんなのを選んだお前が物好きなんだよ。ほらどうせもうすぐあいつが来るんじゃないのか。俺に電話してるのバレたらヤバイだろう? だから……」
『貴方こそ物好きよ。ねぇ、何でアテナなの?』
……むし返しやがった。この女。
『あたしねぇ、最近異国の恋愛小説を読んだの』
「……昔ハマってたインドのエロ本じゃなくて?」
『その小説の主人公の男がね、自分の子どもくらい幼い女の子を育てて、いい塩梅の年頃になったら自分の妻にしちゃうのよ。貴方と少し似てるわね。男って皆そういう“願望”があるんでしょう? 少女を自分好みのオンナに育てて食べてしまいたいっていうの? 父性と見せかけたエゴイズムよね。ああ、そういえばあの冥王もそういうフシがあるわね。若い娘をさらっちゃって、ねえ! でもまあ貴方よりかはマシかしら。貴方ってば、自分が胎内から取り上げた娘を愛してしまうなんて、何て』
「“何て病的でキモチワルイ”ってか?」
『“何て背徳的でエロチック”って言いたいのよ』とアフロディテは吐息混じりに囁く。『貴方がゼウスの頭蓋を割ってアテナが産まれた。羊水ではなく脳漿にまみれた彼女はグロテスクで美しかったわね。彼女がこの世界で初めて見たのが貴方。
“運命が扉を叩く”“目覚めよと我を呼ぶ声聞こえ”――。
彼女は貴方に導かれて産まれ落ちたの。貴方と彼女は誰よりも特別な絆で結ばれているのよ』
彼女は独り言のように一息に捲し立て、ここで一呼吸置くもヘパイストスが口を挟む隙すら与えずまた話し出した。
『でもそれと恋とは結びつかないと思うの。貴方と彼女は親と子、兄と妹、“導く者”と“導かれる者”の関係でとどまるべきだった。でも貴方は彼女を愛してしまった。“導く者”が“導かれる者”に“見返り”を乞うてしまった。それだけじゃない、彼女は処女神として生きなければならない存在。貴方が触れてはいけない存在。貴方の愛はこの世界の誰ひとりにも認められないわ。処女神を愛する事、それは禁忌なのよ。ああ可哀想なヘパイストス、何故貴方は彼女を愛してしまったの? 恋は楽しいもの、愛は満たされるものよ。なのに何故貴方の恋愛はこんなにも哀れで、不恰好で、救われないのかしら?』
黄ばんだ写真が、窓からの風にゆらゆら揺れている。
「……だからあの女を寄越したのか」
アグライアよ、と彼女は直ぐ様かぶせる。『それは、あの娘の意思。あの娘が貴方の事を本当に好きだって言うから。あたしは愛の女神、彼女の背中を押しただけ』
あの少女が脳裏に浮かんだ。あのアプロディテに仕えていたのだから、今までさぞや美しいドレスと飾りに身をつつんで、豪奢な暮らしをしてきたのだろう。何故こんな男臭いところへ嫁ぎたがるのか。何故こんな美しい姿も愛想も持たない――自分で言うのも何だが、大した魅力の無い男の元へ嫁ぎたがるのか。
ヘパイストスにはわからない。
「……しょーじきなところ、迷惑だ。お前の余計な探索も、お節介も、長話も」
『言ったでしょう? 貴方が貴方の仕事をしているように、あたしはあたしの仕事をしているだけよ』
「こんなブ男よりもっと良いのがいるだろうが。実の母親に遺棄されるくらい醜い男だぞ、俺ァ」
『“捨てる神あれば拾う神あり”って言葉知ってる?』
「“神”は俺の方だっつーの。俺はやめとけよ、そんなに可愛がってやれねーよ。お前が身に沁みてるだろ? ほら、アポロンらへんがまだ独り身だろう。お前が彼女にあっちを薦めてやれよ。あいつの方が俺なんかより女の扱いに馴れてるし見栄えもいいし」
『何回も同じ事言わせないで。彼女は“貴方”が好きなのよ』
「……俺なんかのどこが良いんだよ、本当に」
アプロディテはそれには答えず、また『ふふん』と含み笑いをした。

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