「ヘパちゃん」
「何?」
「なんでママと結婚したの?」
顔のちょうど下に埋もれる金髪の大きな頭が、不安そうな声色で訊ねた。表情は見えない。
「……俺が捨て子だったのは知ってるね? 俺ぁ捨てられた後、地上でがむしゃらに修行して、そしてオリンポスに帰った。捨てた母親に復讐するために。
復讐は成功した。そして俺の母親は、どうすれば赦されるのか訊いてきた。だから当てつけで言ってやった。『この世で一番醜い俺に、この世で一番美しいものを捧げていただけるのなら赦しましょう』と。そうしてやって来たのが君のママ。笑い話だな」
「ヘパちゃん」
「……なあに?」
やっぱり表情は見えない。でも、どんな顔をしているのか、手に取るようにわかる。声は震えている。
「なんでママと別れたの?」
「……価値観の不一致、かな」
「ママのこと、ちゃんと好きだった?」
『ちゃんと』ときたか。一瞬戸惑って間が空くと、エロスは早口に言った。「おねがい、好きだったって言って」
「……好きだったよ」
「…………よかった」
電灯の明かり、ランプの灯り、そして開いた窓から覗く弱い星屑の光。
暗闇が果てまでも広がる夜なのに、この部屋だけがヒカリに満たされている。
「僕ね、皆のことが大好きなの。ママが大好き。パパが大好き。ヘルメスも、アテナも、ゼウスもヘラもアルテミスもペルセポネもデメテルも、みーんな好き。アポロンは、嫌いだけど、いなくなったらきっと寂しい。
……クロノスも好きだった。レアも。ウラノスも。昔いた皆。ゼウス達と戦って、いなくなっちゃった皆。大好きだった。だから、もう誰もいなくならないでほしいの。僕が寂しいから。
神さまは死なない。なのに、いなくなっちゃう。皆から忘れられちゃったり『もういらない』って思われたら、いなくなっちゃう。
そしたら、もう『死んじゃう』のと同じ。そう言いたいんでしょ?」
ヘパイストスの胸にくっついたままエロスは顔を上げてニカッと笑った。「ごめんなさい、さっきの話、全部聞いてたの。
神ってね、実体がないのよね。エネルギーの塊なの。で、そのエネルギーが一体なんなのかっていうと、ね。人間の信仰心なの。きっと。だから、人間が僕らの存在を信じてくれると、ぼくらは生きていられる。信じなくなると、僕らは消えちゃう。
僕らを産んだのは人間の心さ。この世界を畏れる人間の心が僕らを産んで、人格を与えた。そして僕らはこの世界に存在するようになった。世界の謎を説くよすがにするために。社会に秩序をもたらすために。そして人間の心の拠り所になるために。
僕らは人間に作り出された、謂わば幻影。でも、確かに僕らは今ここに『いる』。ママとパパがいる。きょうだいがいる。自分で考えて行動してる。それは真実。
人間はそのうち僕らじゃなくて違う神を求めるかもしれない。神自身を必要としなくなるかもしれない。神という概念がどこから来てどこへ行くのかはわかんない。でも、僕らが今ここにいるのだけは確か。
――僕はそう思うよ」
窓の外に広がる闇。ずっと向こうには底無しの藍色の海、そして漆黒の空に浮かぶ月と僅かな星屑。
ここから一歩踏み出したら、足元すら覚束ない。道がどこへ続いているのか、見えない。ヒカリに満たされた”今”から抜け出ると、その先は――
でも、ここにいる。
まだ、ここにいる。
「ヘパちゃんの一番好きなとこ」
途端に声色を明るく変えたエロスが顔を上げた。
「におい。においが好き。ママの香水より、アレスパパの服においより、ヘパちゃんの煙草くさくてオイルとグリスのにおいが好き。気取ってないにおいだから。お仕事頑張ってるにおいだから。だから会う度に、ぎゅってしてもらいたいの」
金髪の頭は男の胸でもぞもぞ動いて、最後に囁いた。「ないしょの話。誰にも言っちゃ駄目だよ」

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