
アポロン
ギリシア神話の理性担当。

ディオニュソス
ギリシア神話の狂乱担当。
アポロンの家には俺の墓がある。
「……この『大地の臍石』の事か」
「そう。それ」
腰くらいの高さの卵型の『それ』は、触ると冷たかった。太い網目模様がびっしり覆っている。デルポイ神殿の地下・神託の間の中心に据えられている巨石、通称『大地の臍石』。
「変な名前!」
「そうだな。俺もそう思う」
「これが俺の墓石なのかい」
「人間によれば、そうなんだとさ――」と、この神殿の主アポロンはものぐさそうに大きく欠伸しながら言った。「――『デルポイにある臍石はディオニュソス様の墓』なんだとよ」
「なんだいそりゃ」
「俺が聞きてぇよ」
「なんで俺の墓がお前ン家にあるって人間は噂してるんだい。そんでなんでこれが大地のヘソなんだい。なんで大地のヘソが俺の墓なんだい」
「だから知らねぇよ。ほら俺ァもう行くぞ。急に叩き起こしてきてはヘソ見せろ石見せろ煩い奴め……ふぁああぁ」
俺に昼寝を邪魔されたアポロンはまた欠伸をして、大きく伸びをして頭をかいた。俺はそれどころではない。一度気になるといてもたってもいられないたちだもの!
「これって大理石?」
「そうみたいだな」
「いつからここにあるの?」
「俺がここに来る前からだな」
「ずっとここにあるの?」
「恐らくな。俺がここに来たとき、ここは大蛇ピュトンの棲み家だったのは知ってるな。ちょうど、ここな」
と、アポロンは剥き出しの黒っぽい土の地面を靴のつま先でノックした。ここ神託の間は神殿の地下にあり、階上の参詣の間みたいに大理石は張られてはいなかった。普段ここは、あの名高いアポロンの託宣を人間に与える場所だ。土の床と、ろくに形の整えられていないごつごつした真っ黒の岩の壁と、部屋の角の小さな松明。そして普通の人間には聞こえないアポロンの声を託宣の依頼主に伝える巫女の座る三脚椅子が備え付けられている。このシンプルな空間の中で無造作に置かれている大きな臍石が、いやにふてぶてしい面構えで狭くて暗い空間に存在感を放っていた。
この神殿は、もちろんこの世界の始まった最初からここデルポイに鎮座していたわけではない。アポロン神だって、生まれてからずっとここに住んでいるわけでもない。ここにはかつて、先住者がいたらしい。それが、蛇だ。
大蛇ピュトンは、全ての者の母たる大地母神・ガイアの子だったらしい。意思を持ち言葉を理解する、高度な知性を有していた、と。かつて、そいつの巣がここにあったという。いや、デルポイ自体が巣そのものだったとか。
ピュトンの愛した土地デルポイは、絵に描いたような風光明媚な場所だ。真っ青なキャンバスを背景に見渡す限り連なるオリーブ色の山の海。雲が波打ち、鳥が飛び魚みたいに跳ね回り、眼下には谷川が岩間を縫って流れている。標高はかなり高い。初めてここを訪れた者は決まって「まぶしい」と言うらしい。輝く君アポロンに相応しい、光が溢れた聖なる土地、と。
大蛇はアポロンに惨殺され闇に葬られた。
「大蛇のとぐろの中心にこの石があったんだ。守られてるみたいにな。大方、あの蛇の卵が石化したとかだろ? それか産んだ卵が孵らぬまま駄目になって、代替物としてこの石を抱いてたとか」
『何故殺したのか』とは聞けなかった。どうせ理不尽な答えが返ってくるに決まっている。
大蛇殺害後間も無く、アポロンを讃えるデルポイ神殿は建立された。そして今に至る。
「用はおしまいか? 俺は夜に予定があるからそろそろ支度をせねばならんのだが」
真横からの声に我に返った。アポロンはやにわにポケットからハンカチを取り出してしゃがみ、臍石の土埃を拭いだした。「小まめに磨かないと直ぐに曇るんだよなー……」
「なあアポロン、なんで君は前の住人の所有物をこんな風に保管してるのさ」
「いや、最初は処分しようと思ったんだけどさ、すげー重いんだよ。大地と繋がってんじゃないかってくらい。
まずアテナとポセイドンを呼んで、無理だった。怪力コンビがな。力押しじゃ敵わないくらい頑丈だとわかったから、次はヘパイストスを連れてきた」
「ダメだったのかい」
彼はお手上げのジェスチャーをして、石の反対側に回り込んでまた真面目に拭く。「あれ以上奴に作業続けさせたら機械の修理代だけぼったくられそうだったからお帰り頂いた。その他にもな、アルテミスを呼んでペットの熊に襲わせてみたりヘラ妃殿下を呼んで呪いをかけてもらったり、ペルセポネを呼んで、こう、冥界の女王パワーでどうにか出来ないか聞いたら、すると花で飾りつけしだしてだな、『壊すよりも活かす方が建設的です』とか言われてだな、」
中腰のままようやく石を一周して磨き終わり、彼はふうと立ち上がった。
「成る程、と思ったんだよ。そうだこれをシンボルとして上手く活用してやろう、とな。もうその頃には神託商売やってたんだったかな、で、ここを託宣の間にして意味ありげに巨石を置いて巫女や神官やに『やあやあこの御石様は!』とか言わせたら、如何にもそれっぽいだろ? 霊験あらたかな感じがするだろ? シンボルから自ずと連想されるイメージ、これこそが大事だ。言葉で説明するよりずっと雄弁に心に語りかけるのだ。見てみろ、馬鹿な人間はよっぽど効果的だ」
「なるほど、だからデルポイのお土産コーナーでそこら辺の小石並べて『臍石ウズラサイズ』とか、汚ならしい紐を寄り合わせて『大地の臍の緒』とかアコギなグッズ展開してるんだね。ていうか俺は君のビジネス講座を受けに来たんじゃないんだ。いい加減話の本題に移ろうじゃないか。
『大地の臍石』が何故ディオニュソス神の墓なんだ?」
改めて石を見下ろした。部屋の隅で小さく灯る松明の火が磨かれた石にゆらゆら映って、更にそこに俺達ふたりの姿もゆらゆら映って揺れている。
人間の噂話など知らん、とでも言いた気な顔つきで口を開きかけるアポロンを片手で制して、俺はしゃがんで石に顔を近づけて、撫でてみる。
『大地の臍石』。子宮の中で母と胎児を繋いでいた紐の、その痕跡という名の石。
「アポロン、墓というものは、死すべき人間が死んだ者を弔うためにこしらえるモニュメントだろう。死者の供養と、残された生者の慰めのための」
石に片耳を当ててみる。眼を閉じて聴覚に集中すると、不思議な低い音がしてるみたいだった。大地の胎動の音が石に伝わっているのだろうか。それは地が揺れる音か、地下水の流れる音か、地底生物が土を掘る音か、幼虫が脱皮してる音か、埋葬された骨が朽ちていく音か。
「何故人間は俺に墓を与えた。何故、何故なんだろう」
再び顔をあげて、まじまじとねめつける。俺は段々気味が悪くなってきた。自分の墓と対峙するこの居心地の悪さと言ったら、まるで──
「世界中から俺の存在を否定されてるみたいだ。『ディオニュソス、お前はここにいるべきじゃない』『お前は消えろ』って」
あの女神の女王の忌々しい顔が脳をよぎった。あの女は、俺の母さんを殺して、俺の育ての父さん母さんも殺して、俺の気を狂わせて、俺はギリシアから追い出されたのだ! あの女は心の底から俺を憎んでいて、俺はギリシアから排除されて、成長して力をつけてやっと帰ってこれたけど「やっぱり俺は受け入れてもらえないんだ。だから、皆に殺意を持たれて、こんな、」
「そんなこと、誰も言ってないだろうが」
アポロンの強い声が俺の思考を遮った。「ヘラ様にいじめられてここを追われたのはお前の幼い頃の話だ。今は違う。俺だけじゃない、ヘラ様の姉君のヘスティア様はお前にオリンポス十二神の席を譲り他の者もそれを認めた。どういう意味かわかるだろう?」
石にへばりついたまま彼を見上げるとその瞳は黄金色で、この暗室の中でも不思議にぎらぎら輝いている。
「ああアポロン、考えてる事が口をついてしまっただけだ。君の機嫌を損ねるつもりはなかったんだよ。そんなに睨んでくれるなよ」
「存在しちゃいけない者に席も地位もわざわざ与えない。今の発言はヘスティア様はじめ多くの神々の厚意を無下にするものだ。撤回しろ」
アポロンは妙なやつだ。いつもひとをボロッカスに邪険に扱うくせに、そいつがそれを真に受けてしおらしくなると今度は怒り出す。「(デルポイに)居座るな出ていけ」って口酸っぱく説教するくせに、「(この世に)いちゃいけないなんて誰が言った」と怒り出す。矛盾した変な奴だ。
「なあアポロン、君は太陽の象徴らしいね。その瞳は正に太陽色だよ。俺は君に感謝しているんだよ、太陽神君。俺は、ディオニュソスは、葡萄そして植物の象徴だ。わかるかい? 俺は君の光が無いと生きていけない。存在できないんだ。植物は太陽がいて初めて、葉を広げ、茎を伸ばし、花を咲かせ実をつける。太陽というお節介焼きでひとを見下して無尽蔵に暑苦しい奴がいて初めて生きていける。君がいるから俺はこの世界に存在できる。そんなこと俺はわかりきってるんだ。だからごめんなさい。ね、アポロン」
小さな空間に、最後の一言の残響の余韻が尾を引いた。
アポロンは溜め息混じりにズボンのポケットに片手を突っ込んで、もう一方の手で帽子を目深にかぶりなおし、大きく息を吐いてそして勢いよく吸って一気に「アポロンアポロンひとの名前連呼すんなイチイチごちゃごちゃやかましい! 恥ずかしい奴め! 踏みつけるぞ!」とまくし立てて片足上げるもんだから俺はつかさず石を盾にして回り込んだ。
「これはお前の墓じゃない! 俺にとってこの石は商売道具でそれ以上でも以下でもない! とにかくこれは墓じゃない! お前は神なんだから墓なんか必要ない!」
そしてアポロンは俺に見せつけるみたいに大袈裟に袖を捲って腕の時計を覗く。「ほら、タイムアウト。もう話はやめだやめだ。ったく、ブラックホールみたいなお前の澱んだ目ェ見てたらやる気が吸い取られてく気がするぜ……」
彼は踵を返して部屋を出ようとする。ギ、と鈍い音を立てて扉が動かされた。今まで閉まっていたそれが開かれると、途端に重苦しい地下空間は急に砂埃の舞うただの小部屋に変貌した。室内の空気の密度さえ変わったような。
その光に当てられた時だった。
「……あ、そうだ。わかった。アポロン、わかった気がする」
扉の外の地上階へ出る階段に足をかけようとして、アポロンは振り返った。「ほら早く、お前が出なきゃ鍵閉められないだろ」
「ちょっと待って、『真っ暗な子宮から産道を通り光に満ちた世界へ産まれ落ちる』んだ。俺は何かわかった気がする」
「はあ?」
ジャラっと鍵を鳴らして彼は振り返った。
「君は初めにこの石は『大地の臍石』という名だと言った」
「……まだその話か」
「そして君が大蛇ピュトンを殺した時、大蛇のいた場所に残されていたのがこの石だ。大蛇は大地母神の子だった」
「……」
「さっきこう言ったな?『大地の臍石』は蛇の石化した卵じゃないかと。そんな馬鹿な。蛇はここで死んだんだから、これこそが蛇の墓と考えるのが妥当だろう。じゃあ何故蛇の墓が、俺の墓だと伝わる? そして、ディオニュソスの名の意味を知ってるか? 『二度産まれる者』だ。
君はさっき咄嗟に俺を神と言ったが厳密には俺は純血の神族ではない。かつて俺は――その時の俺は『ディオニュソス』ではない別の神だったのかもしれないけど――神ではなかったが、二度目の誕生で神になった。そして俺には一度目の生の記憶が薄いんだが、俺は昔、どうやら蛇にゆかりがあったらしいんだ」
口が勝手に回ってるみたいに矢継ぎ早に、どんどん、もっと速く。そうだ、俺は死んだんじゃない、『死んだことがある』らしいんだ。神族の中で唯一。その頃の記憶は混濁していてわからない。だが確かに、確かに俺は、蛇と何か関係があった。いや関係があったなんてもんじゃない――
「そして、俺は植物神だ。植物は確かに太陽の恩恵を受けて育つが、種子を守り芽吹かせるその母体は、大地だ。全ての植物にとって『大地は母』なんだ。かたや太陽、これは植物を育てもするが同時に枯らしもする。『矢で射る』ような強烈な日照りで植物を殺すのが君だ。そうだろう、アポロン?
全ての植物は大地の子。大地という暗い子宮から明るい地上の世界へ産み出される。大地の子である大蛇は太陽に殺された。植物神である俺は過去一度死んでいる。死ぬ前、俺は蛇と関わりが深かったらしい。」
闇に葬られた大蛇の記録。そして、闇に葬られた俺の記憶。
「――君に殺された大蛇とは、俺のことなのか?」
アポロンは無言で俺を睨んでいたが、ぽつりと「それは極端な解釈だな」と呟いた。
「この証明が全部まるまる真実だとは俺自身思ってない。でも、完全に否定はできないんじゃないか?」
へへ、と笑顔を作ると、彼も口の端を吊り上げるだけのいびつな微笑みを浮かべた。目は笑っていない。
「……“汝、自身を知れ”。意味は自分で考えろ」
アポロンは生かす者、そして殺す者。認めた者には加護を授けるが認めない者は有無を言わさず殺す。圧倒的な光に皆目を奪われるけど、その裏の影にわだかまる底知れぬ闇の部分も、確かに彼なのだった。
そして彼は、今度は俺を待たずに、階段を昇っていった。
「……石についての疑問を解消しに来たのに、アポロンと自分自身への疑問が追加されちまった」
俺の横の石は沈黙を守っている。
小部屋の闇を吸いすぎた。胸の暗いつかえは暫く沈殿して、ハンカチなどでは簡単に拭えそうにない。

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます