水面に揺れるオフィーリア

アプロディテ
性愛の女神。基本的に裸族。趣味は男と寝ること、特技も男と寝ること。綺麗なものに目がない。
ヘルメス
伝令が仕事の少年神。商売と旅人と盗人の守護神。いつも忙しそうにしている。好きな諺は『嘘も方便』。
ゼウス
雷の神。ギリシャの神々の中で一番偉い。好色家で子どもがたくさんいる。いつも遊んでいたい。

 

彼女が朝風呂から部屋に戻ってくると、開けっ放した窓の外に一人の少年がやって来ていた。

「おはよう、オフィーリア」

窓のさんに頬杖をつき、ニヤニヤと彼女を見つめる少年。下着一枚の彼女は恥ずかしがる様子もなく、クローゼットから薄手のワンピースを取り出し、着衣しながら言う。

「私、そんなに気狂い女に見える?」

「ここ来る時に通る小川、花びらが一面に浮いて流れてたからさ」

服を身につけ、濡れそぼる髪をタオルドライしつつ、彼女は窓辺の少年の元へ寄り彼の頬にキスをして、彼の目を覗きこみながらなぞなぞを出すように問いかける。「私が”オフィーリア”なら坊やは誰なのかしら」

すると彼は間髪いれずに得意満面の表情を浮かべて曰く、「そりゃあ僕はさしずめ、女と男の恋のさえずりを木陰で盗み聞く愛らしい夜鶯と言ったところでございましょうな! 『お言葉通りにジュリエット! そしてロミオは月光を背に纏い姫の前に踊り出るのです』!」

「まあ随分とうるさい小鳥だこと! お前には……そうね、ヴェニス街のがめつい高利貸しの方がぴったりではないかしら?」

「そりゃいいや! 第一俺には悲劇より喜劇の方が性に合う。胸肉は大好物だしね!」

彼が大仰な身振り手振りでそこまで言うと、堪えられなくなって二人してゲラゲラ笑いだしてしまった。

春の木漏れ日がぽかぽかと二人を照らす。まだ風は冷たいが、それが爽やかで気持ち良かった。

「誰もいないの?」

「ついさっき帰ったところ」

「誰といたの?」

「……好い人と」

少年の視線の先には、シーツの乱れた大きなベッドが。

彼女はその複雑な色をした大きな瞳を潤ませて爛れた微笑をし、長いブロンドの髪を手指で弄びながら首をかしげつつ、言った。

「寄ってく?」

――さっきまで、他の男と寝ていたくせに、と少年は内心ぼやいたが顔には出さない。彼女にとって自分は数多くいる『カレシ』の一人に過ぎないし、それでいい。そのくらいに想っていてもらった方が重くなくていい。どうせ遊びなんだし。

恋愛なんてのめり込んでは厄介だ。いや、何事においても本気になってしまうと面倒臭い。少年の持論。そして、いつも浮わついた彼女と自分は似た者同士。そう思っていた。

「いや、いいよ。これから用事で行かなきゃいけない所があるから。アンタの元旦那の所にね」

「あらそうなの……。もう随分と会っていないわ。あの人元気?」

「さあ? 知ったこっちゃねぇや! 何せ今から会いに行くんだからね! さ、もうそろそろ寄り道も仕舞いだ」

「行っちゃうの? 面白くない」

ぶう、と頬を膨らませる女。

「……ねぇ、ホントにさ、誰といたの?」

「気になる? 坊やが焼き餅焼くなんて珍しいわねぇ」

「純粋な好奇心。アンタ今愛人何人いるの」

彼女は両手を顔の前に出し、わざと馬鹿な女ぶって、ひいふうみい……と指を折って数えていく。

「……困ったわ、指が足りない」

「たいしたもんだぁ」

「……坊やは、私を独り占めしたいとか、私と結婚したいとか、言わないわよねぇ」

「言わないっつか、考えたことも思ったこともないや。俺は間男でアンタはお姫様。これで十分だしこれ以上もこれ以下もいらねぇや」

女は目を見開いて、続いて口が裂けそうな程笑って身を乗り出して両手を広げ――開いた窓の外側にいる少年を思いっきり抱き締めた。

「ぐへっ! ちょ、苦し」

「坊やのそういうドライなとこ大好き! 決めた、私坊やの花嫁さんになったげるぅ!」

「ひ、人の話聞いてないだろう!? 遊びで付き合うならともかく、アンタみたいなわがままふしだら女と連れ添うなんざ、真っ平ごめんだね」

「まあ! そういう小生意気なとこも可愛くて好きよ! あなたの為なら小歌を唄いながら死出の河を流れたっていいわ!」

少年は抱きついてくる彼女を無理やり引き剥がした。

「……何かあったの?」

間。

虫の羽音に木の葉の葉擦れのみが過ぎる。

女はその間一切表情を変えず、むしろ、少年のいぶかしげな表情をたっぷり観察するように眺め、満足そうに喉を鳴らして、ようやく口を開いた。

「……別に。もっとも、何かあったとしても『何もない』って言ってしまうような女ですけれどね、私は。――ごめんなさい、駄々こねたかっただけ。早く行きなさい」

「なんだそりゃ」

「次はプレゼントを忘れないでね、”シャイロック”。エジプトのお妃様が身につける様なエメラルドのネックレスが欲しいのぉ」

「おいおい、そういうのは”ハムレット”にねだりなさい」

「……ふふ」

***

――エメラルドは却下にしても、次行く時には何か土産でも持って行ってやるか、とぼんやり考えながら少年はもと来た道を歩いていた。風に吹かれ水面に舞い落ちる色とりどりの花をさらさらと流す小川の、そこに架かる苔むした小さな橋を渡ろうとした時に、前方に影が現れ、それに声を掛けられた。

「朝から逢い引きかい? ヘルメス君」

「……親父」

少年の父は彼の行く手を塞ぐように立ちはだかった。少年と同じくらいの背丈で、息子の顔を上目遣いで覗き込むようにニヤニヤ笑っている。

「ヘパイストスにアレスにディオニュソス、お前まであの女のイロか。まあヘパイストスのやつは昔々に別れちゃったけど」

「気ンもち悪ィ! 息子達の情事をストーキングしてんのかよ!」

「勘違いするな! お前らがあんなハデな女と付き合うからイヤでも私の耳に届くんだよ!
ヘルメス、やめとけ。アプロディテはろくでもない女だ。恋は尊い、愛は麗しい! でもそのお相手にあの女を選ぶのはお父さんは反対だ! 火傷じゃすまないぞ」

「修羅場製造マシーンのゼウス様にそーいう事言われても全ッ然説得力ないんですけど」

ぐげげげげ、と、傍らにいた蛙が笑うように大きく鳴いた。

少年の父は、表情を変えず――目を細めない上目遣いの笑顔のまま――少年の前から一層退かない。

「お前が可愛いからこその忠告だ。あの女は男を狂わせる。奴の魔性は狂気じみている。お前は若いからわかっていない。へパイストスやアレスを思い出せ。あの女に入れ込むと最後、男は奈落に突き落とされてしまう」

彼は足元の蛙を摘まみ上げ、川に投げる。ドプンという音を立てて蛙は水中に吸い込まれ、小川は意外と流れが速いもんだから、あっという間に水にもまれて見えなくなった。

朝日を浴びる小川の上を流れていく色とりどりの花弁、そしてその隙間を縫ってちらちら輝く水面を見つめながら、少年は父のこの『説教』に歯向かう言葉を探す。なんだかもう、一日の出鼻をぶち壊された気分だし、父は彼女のことをさっぱり理解していないのだと感じ、無性に腹が立ってきて。なんでこんなに苛立つのかもわからず、それが更に苛立ちに拍車をかけ。

「……退けよ」

父は動かない。あの笑顔である。

「親父、間違ってるんだよ。解釈が逆なんだよ」

「逆?」

「落ちちまっているのは男達じゃない、彼女自身だ。もうとっくに彼女は恋に恋する余り発狂して入水してんのさ。極彩の花々に祝福されながら、破滅に向かって押し流されていくんだ。それは凄絶な美しさだ。そして男達はそんな彼女を見て――」

「見て?」

「――恐ろしくなる」

ああ、気づいてしまった。俺は怖いのかも知れない。自分を見失なってしまうのが。そして彼女を見失ってしまうのが。

振り返って彼女の屋敷を思う。無数の男を連れ込むあの部屋を。シーツの乱れたベッドを。そこで自分以外の男と営まれる毎夜の――

「ヘルメス」

父の呼びかけに我に返った。いつの間にか、血管が浮き出るほどの力で握り拳を作っていた。
……参ったな、本気にはならないと決めているのに。俺は”夜鶯”で”シャイロック”。立ってる舞台も、出演する脚本も、まるっきり別世界じゃねぇか。

「何てったって”オフィーリア”だからなぁ、アイツ」

「あん? 何それ」

「秘密」

「親父に隠し事か! 父さん寂しいじゃないかメソメソクスン」

「そーいうとこすげーキモい。ほらマジで退けよ、俺は忙しいの。ヘパイストスの兄貴は時間に厳しいんだから」

「父さんは暇だ、暇なんだよヘルメス! そうだ、手伝おうか! 何せ父さんは君に悪い虫がつかないか気になって気になって……」

やっと通せんぼを解除してくれたが後ろからくっついて離れない。どうやらついてくるつもりらしい。

「過保護か! 子離れしろ!」

「で、”オフィーリア”てのはどこの女かね?」

「馬鹿親父!」