
デメテル
農耕の女神。オリンポス十二神の一員。ゼウスやポセイドンの姉。シングルマザー。

ポセイドン
大地と海の神。オリンポス十二神の一員。デメテルの弟でゼウスの兄。家庭持ち。
時に甘美なる過去はその糖度故に現在を蝕む。
「……おぅ」
「……あ」
定期的に行われるオリンポス十二神会議。オリンポス山の頂の宮殿にて行われる12大神の会議。その閉会後の人気のない廊下だった。できるだけ近づかないように、目も合わさないようにしていたのに、偶然にも鉢合わせしてしまった。
「……元気か? 姉貴」
「うん? ぼちぼちね。今はあの娘も帰ってきてるし」
『あの娘』というのは自分以外の男との子どもだ。男の胸に軽い嫉妬心が生まれたが、思い直す。あの子に罪はない。
「アンタこそまた筋肉つけた? あんまり鍛えすぎると気持ち悪いわよ、海王様」
女の方はわざと明るく話す事で、場を軽く流そうと必死だった。
「じゃ、奥さんによろしくね」
「待てよ」
男の大きな手が女の細い手首を掴む。
「……何」
「……ちょっと話さないか、デメテル」
──避けていたのに。
デメテルとポセイドン。姉と弟にして、昔の恋人。
***
恋人と言っても付き合っていた訳ではない。昔から二人は仲の良い姉弟だった。あの子ども時代──父に、ゼウスを除く姉弟五人が監禁されていた頃──ふわふわした長女ヘスティアや気の弱い長男ハデスや幼い三女ヘラの中で実際にイニシアティブを取ったのは、子どもの頃からしっかり屋だった次女デメテルとやんちゃ者の次男ポセイドンだった。母のいない中でデメテルはその持ち前の世話焼きの性分を発揮して弟妹達の面倒を見、そんなデメテルに後ろからついていくポセイドン。彼も次第にリーダー的資質を目覚めさせ、姉兄をまとめあげていく。自分が新たな王になると無邪気に信じて。
姉は弟を可愛がり、弟は姉を慕った。姉は弟を守り、弟は姉を守ってやりたいと望んでいた。
そんな中、突然に訪れた『外への脱出』と『弟の登場』。青天の霹靂。
「……何よ、今更」
「いや……久し振りなんだし、世間話もいいかなって」
二人して横並びに壁に凭れた。すぐ目の前は荘厳な柱が、そしてその向こうには美しい庭が造られている。オリンポス宮殿は雲海の波間に突き出すように在るため、日を遮るものがない。オレンジ色の強烈な斜陽が白亜の円柱を照らし、その濃色の影が青々しい庭に落ちている。
二人の間に漂う緊張感は解けない。この光景を見ると、あの快活なデメテルとポセイドンが二人きりの時にはこんな表情をするのか、と『事情』を知らない第三者は驚くだろうに。だが生憎この夕日の翳る離れの回廊に他人のいる気配はない。本殿の方では、もうすぐ始まる宴の準備に皆が追われているだろうが。
料理の仕出し等手伝ってやると使用人達に伝言していたが、このままでは無理だな、とデメテルは内心申し訳なく思った。そんな事情露知らず、ポセイドンはぎこちなく喋り始める。
「ゼウスの野郎、相変わらずイラつく喋り方しやがるな」
暫しつき合ってやるか、と覚悟を決めるデメテル。
「ほんと昔ッから口が悪いね、あのチビ金パは。まああれに負けてないヘラもヘラだけどね」
「それ言うならアテナの姫様も、だろ。ヘラとアテナが組んだら口で敵う気しねーもん俺。実際アポロンがあの喧嘩に口出しして負けてたし」
「その兄を収めるのがアルテミスで、ゼウスとヘラ達をなだめるのがヘパイストス、いつの間にか司会進行してんのがヘルメス。アレスとアフロディテはハナッから席に座ってるだけで話に参加する気ないし、ディオニュソスは出席すらしない。いつものお決まりパターンで閉会。毎回これだもん、進歩ないよねぇ」
「てか、今日のゼウスの挙げた議題」
「……『女だらけのオリンピックをやりたい』だっけ」
「くだらねー! アホかアイツは」
はは、と無理矢理笑うポセイドン。だが白々しい空気が漂うだけ。デメテルは小さく溜め息をついた。
***
父に監禁されていた五姉弟を救った『知られざる弟』、それがゼウスだった。外の世界でのびのびと育ち、力強く成長した彼。突如現れた、新時代の王としての天賦の資質を持つ末の弟。
ポセイドンが反発しない訳がない。
すぐに二人は反目しあう仲となった。今でこそやっと穏やかに話もできる仲に落ち着いたが、当初そこには『生き別れの兄弟』というやさしいムードは皆無。あるのは剥き出しの嫌悪感。ゼウスの華やかさ、人心掌握力、そして好色ぶり。ポセイドンは何もかもが気に入らなかった。
『ゼウスを中心として』挑んだ父との戦争に、『ゼウスの知略によって』勝利した後、二人の対立はますます激化した。空位の奪い合いだ。これ以上暴力と破壊を見たくないという他の者達の懇願により、世界を3分割してクジを用いて3兄弟で平和的に割り振る。結果、地下の冥界をハデスが、地上をポセイドンが、天空をゼウスが治める事となる。そしてゼウスは定めた。この天空の王がオリンポス山に君臨して『王の中の王』となる、と。
もはや反論するものはいなく、ゼウスこそリーダーに相応しいと誰もが考えていた頃だった。ポセイドンよりもずっとしたたかなゼウスは、影で思う通りに事を運んでいたのだ。
──ポセイドンはゼウスに敗北した。
***
「アンタ、今日はここに泊まり?」
十二神の中で一番遠方からここを訪れているポセイドン。往復だけでもちょっとした小旅行になる。「明日帰る予定。どうせ周りが帰してくんねーだろ、酒入ると」
「ディオニュソスも宴が始まった途端に顔を出すし」
「それをアポ公が怒る、と。『大事な話し合いには来ずに打ち上げには参加するのか!』……ってな」
「はは、似てる似てる」
残念な事に『大事な話し合い』というのは毎回毎回しょうもない案件をダラダラ喋って終わるだけなのだが。
「ちゃっかりヘスティア姉も遊びに来たりね。宴にだけ。ディオニュソスに十二神の席を譲る前なんか、あのひと会議には絶対遅刻してきたし。面倒臭がり屋だから」
「ヘス姉暫く会ってねーわ、俺。ハデスの兄貴も出て来れれば兄弟全員揃うのにな」
何気ない一言だったが、その瞬間、デメテルの息を飲む音が聞こえた。
「……すまない」
「何でもない。そうだね、皆でたまには集まるのもいいよね。随分ご無沙汰だから」
言葉尻が寂し気に尾を引いた。
***
なんとか丸く王の座と領地が各々決まったのだが、ゼウスとポセイドンの仲がもっとも険悪になったのはこの後である。ゼウスによるデメテルの妊娠だ。
この時のポセイドンの激昂は、ゼウスを除く名だたる神々の誰もが震え上がる程恐ろしいものだった。あわや再び戦争が起こるのではないか──ただし今回は兄弟同士で──と、一時はそれ程までに緊迫した。
しかし辱しめを受けた姉自身は昔からの強い眼差しで、憤る弟をむしろ諌める視線で、言った。「産む」と。
その時彼は初めて気付いたのだった。自分がずっとこの姉に抱いていた好意に。そして同時に思い知った。この恋はもう叶うことがないと。ポセイドンは再びゼウスに敗北した。
愛する姉は自分が世界一嫌う男との子どもを無事に産み、その娘と共にシングルマザーの道を歩み始めた。女ふたりだけで、男性から逃げるように。そこにはポセイドンの入る余地など無なかった。
「……あのさ、ペルセポネと兄貴の事」
「だからもう何でもないって言ってんだろう。あの子らが幸せなら、それでいい」
それっきり口をつぐむデメテル。姉の顔を横目で伺おうとも、夕焼けの深い影がかかって見えなかった。
***
不死の存在・神にすらも、時は無常に流れ、様々な物を押し流していく。デメテルの娘は大きくなり、その間にゼウスはヘラと、ポセイドンもとある海のニンフに惹かれ結婚した。あの姉のように気の強い女だ。そして彼女の縁もあり、ポセイドンは海を治める権利も手に入れる事となる。活動地を海底に移し、二人は子宝に恵まれ、自分を慕い集まる部下もいる。ゼウスの子達(そこには妻との子だけでなく私生児も大変多く含まれるが)も育ち、彼らもかつてのあの兄弟達の様に青春を謳歌している。
いつの間にか全く新しい環境と幸せが彼を包んでいた。以前の荒々しい性格は多少丸くなり、心から妻を愛し、子どもを愛していた。……姉への想いを封印して。
その矢先に事件は起きた。未だ独り身であったハデスによるデメテルの娘の拉致。
後から聞くとこの事件はゼウスとアフロディテの策略だったらしい。しかしそんな事あの時のポセイドンは全く知らない。ただ彼がゼウスから聞かされ、そして頼まれた事は『娘を誘拐されたショックで飛び出していったまま行方不明になっているデメテルを、大地の王の力で捜してくれ』というものだけだった。
農耕の女神の加護のなくなった地上は植物が育たなくなり荒廃し、全生命は危機に瀕している。何よりも姉が気掛かりでしょうがなかった。そして彼は、あの弟のたっての願いを、思わず承諾する。
***
彼は彼女の顔を見つめる。じっと。目が慣れて見えるようになるまで、じっと。
「……ちゃんと飯食ってるか」
「は? このあたしに何言ってんのアンタ」
不意の一言で声の方を向くと、彼女は彼の鋭い視線から逃げられなくなってしまった。
「そういう意味じゃなくて、しんどくねぇのか、女手ひとつで生活するの」
「……馬鹿にしてんの?」
「だからその、苦労してんじゃねぇのか。顔やつれてるし」
「今の時期は忙しいの。それにこの顔は昨日の酒の飲み過ぎ。余計な気ィ遣うんじゃないよ」
そしてポセイドンは、言いにくそうに、しかし噛み締めるように言った。
「……お前がいいならウチに来ればいい。俺が楽な暮らしさせてやる。いや、させてやりたい」
「は?」
「だから! 俺ンところに来いよ!」
一瞬の間。その意味を理解すると、デメテルは腹の底からわき出る感情を止める事が出来ず、肺の中の空気を全てポセイドンにぶつけるように叫んだ。
「馬鹿言うんじゃないよ!」
叱られる事など当の承知。しかし、彼は言わずにはおれなかった。
夕影に埋もれた彼女のその──
「農耕の女神が海の宮殿に隠居できるもんか! 地上を『また』見捨てろって!? 出来るもんかい! それにアンタにはもう奥さんも家族もいるだろう!? あたしが行けるとでも!? あたしをそんな女だと思ってんの!? それに、アンタがあたしを囲いたがってるって向こうの両親が知ったらどうなる!? 海王の身分の剥奪だけじゃ済まないだろう!? あたしはただの女じゃない、高貴なるオリンポス十二神のひとり豊穣神デメテルだ! アンタが手ェ出していい女じゃないの!
──いい加減、あたしを吹っ切れ!」
「ンな泣きそうな目ェ見てほっとけるか!」
咄嗟にポセイドンはデメテルを抱き締める。ぎゅう、と。小柄なデメテルは彼の広い胸にすっぽりと埋まってしまう。自分よりよっぽど華奢な首、華奢な肩、華奢な腕、華奢な腰。出産を経験し、毎日農耕作をしている。決して細すぎるという風ではない。が、やはり『女』なのだ。どんなにひとりで強がってもひとりの小さな『女』なのだ。さっきデメテルの手に残る沢山の怪我や火傷やマメの黒ずんだ痕が目に入った。耐えられなかった。彼女の労苦を分かち合ってやれなかった自分自身に耐えられなかった。そんな自責の念が抱擁の力を更に強くする。
彼女は抵抗しない。その代わり、反応もしない。
「……痛い、離して」
少し冷たく言われる。
「離して」
やっと束縛を解く。
……あの時もそうだった。娘を奪われたショックでひとり彷徨うデメテルを見つけたあの時。これまでどんな時でも気丈に振る舞っていた姉が弟に初めて見せる、哀しみをたたえた瞳。あの時と同じ眼。
あの時、今と同じように彼女を掴まえて抱き締めた。そして若かった自分は抗う彼女を無理矢理──
「ポセイドン」
デメテルの声で過去から現実に戻される。
「……もうそういうことは無しだ。忘れよう」
「……忘れられるか」
「違う、姉弟の絆じゃない、恋慕の情をだ」
「どっちにしろ忘れられるか!」
「駄々こねもいい加減にしな! いつまでも『お姉ちゃん』の影を追うんじゃない!」
その瞬間のポセイドンの、眉を寄せて口を真一文字に結んで俯く子どもの頃と寸分違わぬ表情を見て、デメテルは思わず勢いつけて平手を放った。パンッと軽い音が廊内に響き、儚く霧散する。
昔と同じに見える。でも決定的に何かが違う。ずっと寄り添いながら歩んできた筈の姉弟の道は少しずつずれ、気がついた時には修復出来ない程に遠く遠く離れていた。
「……ごめん」
その言葉は口の中で反芻されながら消えていく。ごめん、ごめん、と。
「……帰る。皆に伝えといて」
「デメテル」
返した踵を戻して、潤んだ眼のままポセイドンを真っ直ぐに見た。
「『姉さん』だ」
彼女の背中が去っていくのを、彼はその場で見つめる事しか出来ない。やり場のない虚しさは頬の痛みと共に暫くは消えそうになかった。
「……呑むか」
痛みを忘れる手段が、酒。確かに子どもの頃と同じではないな、とポセイドンは苦い溜め息をついて歩き出す。

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